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2015/09/05(土曜) 16:51

ビールーニー、歴史的なイランの博学者

ビールーニー、歴史的なイランの博学者

9月4日は、イランの傑出した学者アブーレイハーン・ビールーニーの生誕日に当たります。彼の幅広い学術知識と専門性は、イスラム世界でのみならず、全世界においても類まれなものです。


ドイツの著名な東洋学者エドワード・ザッハウは、ビールーニーについて次のように述べています。「アブーレイハーン・ビールーニーは、最も偉大で賢明な思想家であり、歴史は彼を知っている」 今回は、この偉大な学者ビールーニーについて紹介することにいたしましょう。

アブーレイハーン・ビールーニーは、西暦933年9月4日に生まれました。彼は、イスラム世界の他の偉大な学者たちと同様に、コーランの習得から学問を開始しています。原則的に、イスラム諸国の研究者は全て、コーランと文学の習得から初歩的な学問を開始し、その後で文学や自然科学を学んでいます。そして、初歩的な学問を習得した後に、興味のある学問を掘り下げ始め、長年にわたり継続しています。
昔の学者たちの興味深い点は、1つの分野に対する興味により、他の分野がおろそかにはならなかったという点です。このため、イスラム世界の偉大な学者の多くは、文学や様々な科学の分野に関する数多くの論文を残しています。アブーレイハーン・ビールーニーも、そうした偉大な学者の1人です。
ビールーニーは、数学、天文学において、当時のトップランナーであり、歴史学や地理学、医学や自然科学、鉱物学、文学や哲学の分野でも優れた学者とされています。しかし、ビールーニーを他の学者よりも際立った存在にしているのは、彼が採用していた正確な経験則による研究です。彼は、現在も世界の歴史的な学者の業績のうちでも最高の結果を出したとされています。

ビールーニーの著作は、数多く、また多岐にわたります。彼は、幅広い知識を有し、様々な言語に精通していたことから、より多くの資料や文献を活用し、数多くの著作を残しました。著作のタイトルは180に上ります。彼は、1036年に記した『文献目録』という論文において、自らが記した113の書物や論文を挙げています。
興味深いことに、ビールーニーは全ての著作において、他人から伝聞した事柄、例えや実例を持ち出しておらず、また学術的な内容を簡略化することはありませんでした。一方で、彼の著作には、不要な表現は見られません。それは、ビールーニーが内容を理解するためには読者自身が努力し、推論すべきであると考えていたことによります。彼は、著作の全てを、専門家向けに執筆していました。
ビールーニーの類まれな著作の1つは、『古代諸民族年代記』です。この著作の主要なテーマは、古代の諸民族の暦に関するものです。しかし、その他にも天文学、様々な民族の祝祭、様々な宗派の儀式、自らを預言者一門と名乗る人々に関する報告、イランやバビロン、ローマの歴史における驚くべき内容、ユダヤ教、ゾロアスター教、マニ教、マズダグ教といった宗教の聖典といった、価値ある内容が述べられています。さらに、この著作では数学、計算法、図形、代数学などにも触れています。
この著作は、西暦1000年から1001年にかけて完成し、ビールーニーの初めての作品の1つです。これは、彼が20歳の頃、イラン北東部ゴルガーンのカーブース王の宮廷によりまとめられました。また1878年には、ドイツの東洋学者ザッハウにより序文とともにドイツで初めて出版されています。ザッハウはその翌年、1879年にこの書物を英語に翻訳、出版しました。
ビールーニーは、様々な文明の思想を理解するために、伝聞による内容を記すことを避け、必要な言語を学んで仲介物によらないオリジナルの資料を活用しました。このため、彼は古代シリア語、ヘブライ語、サンスクリットを習得しました。

ビールーニーのもう1つの重要な著作は、『インド誌』です。この著作は、インドの人々や自然地理について詳細に説明していると共に、インド人の宗教的、社会的な規範や哲学的な問題にも触れています。多くの著名な東洋学者の考えでは、ビールーニーの『インド誌』における研究は、インド学、宗教学、人類学に関する初めての著作であり、この作品は常にインドの文明史、文化史における最も重要な資料として使われています。
ビールーニーは、インドやインドの人々に関する知識を完成させるために、様々な分野に関するインドの書物を研究し、インドの著名人や偉大な学者と交流し、討論しました。ここで注目すべきことは、これらの偉人たちの多くが同じインドの人々に対しても、自らの持つ知識について語ろうとしなかったということです。それは、知識を持つのは自分たちだけであり、他の人々を無知な存在と見なしていたからです。ビールーニーは執拗に要求し、教師の下で教わる生徒のように、それらのインド人の学者たちの前で謙虚に教えを受け、彼らから色々な内容を学びました。

ビールーニーのもう1つの著作に、『マスウード宝典』があり、これもイスラム文明の最高の書物です。この著作も数学、天文学、占星術の百科全書と見なされています。ビールーニーは、この著作において、星の複雑な運行を検討することに努めています。
『マスウード宝典』は、ビールーニーの学術書のうちで最も簡素で流麗な作品です。彼は1030年、アフガニスタンのガズナ朝の王マスウードの要請により、この書物を編纂し、マスウード王にこれを献上しました。歴史上に伝えられるところでは、マスウード王はこの著作を見て大変喜び、褒美として大量の銀をビールーニーの下に送ったということです。しかし、ビールーニーはこれをマスウード王に送り返し、自分はこれまで慎ましい生活をしてきたため、その習慣をやめるつもりはない、だからこのようなものは必要ないと述べたとされています。

『占星術教程の書』は、現存するビールーニーの著作のうちで、唯一ペルシア語で記された著作です。歴史的な伝承によりますと、彼は1029年、現在のアフガニスタンの都市ガズニーにて、フサイン・ハーラズミーという人物の娘の要請によりこの書物をペルシャ語で記したということです。ビールーニーはこの著作において数学と天文学の初歩を、他の著作よりも簡易な言葉で説明しようとしています。また、この著作は、これらの学問によく通じていない青少年に読まれています。
この書物には、530の質問と回答が収められており、幾何学、計算、占星術、占星術の法則の4つの部門に分かれています。ビールーニーは1年後、この著作を自らアラビア語に翻訳しました。この著作のアラビア語版の一部は、1934年にスコットランドの学者ラムゼイ・ライトにより英語に翻訳、出版されました。なお、この著作はユネスコ記憶遺産に登録されています。

ビールーニーの研究には、偏った見解や固執した考え方は一切存在しません。彼は、自らの属する宗教や国民性に対して偏狭的になることはありませんでした。このことを裏付ける具体例として、様々な国の人々の宗教的、社会的な風俗習慣や信条に対する、彼の中立的な研究の幅広さが挙げられます。これによっても、様々な宗教信仰の原則について研究し、複数の宗教を比較することができるのです。これは、当時のイスラム法学者のいずれも注目していなかった事柄です。それは、宗教の比較ができるのは、無知による偏った考え方に囚われておらず、様々な言語で幅広い研究を行い、様々な民族の信条の原則に関する情報を獲得する力のある人々のみだからです。
ビールーニーは、これらの条件を全て満たしていました。もっとも、ビールーニーが宗教信仰に対して偏った考え方を持っていなかったということを、彼が宗教信仰を持っていなかったことと解釈してはなりません。ビールーニーの大半の著作においては、彼がイスラムとその預言者一門に対する信仰心を抱いていたことが、完全に明白に現れています。
ビールーニーは、その生涯を勉強と研究、著述に捧げました。彼は自叙伝において、毎日欠かさずペンを執り、また書物から目を離したことはなかったと述べています。ビールーニーの人物的な特徴の1つは、勉学と新たな知識の獲得を弛まず継続したことです。

最後に、ビールーニーと同時代のある学者のコメントをご紹介することにいたしましょう。「私は、ビールーニーが死の床にあったときに、彼に会いに行った。彼は、苦しそうに息をしながら、イスラム法学のあるテーマについて私に問いかけ、以前に一度自分にこの内容について説明しているが、もう一度それがどのようなものであったか説明するようにと命じた。私はそこで、今はこのような質問をするときではありませんと述べた。すると、ビールーニーは、このことを知ってから死ぬのと知らずに死ぬのとでは、どちらがよいかと尋ねてきた。私は、このテーマについて再度説明し、彼もその内容を完全に理解した。彼の下を離れ、帰る時に、まだ数歩も歩いていないうちに、彼の家から嘆きの声が聞こえてきたため、私は彼が亡くなったことを悟った。これは、1048年12月17日の出来事であり、アブーレイハーン・ビールーニーは78年の生涯を終えた」

 

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