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2015/12/17(木曜) 21:14

イランの絵画と文学の繁栄(3)

イランの絵画と文学の繁栄(3)

前回の番組でもお話したとおり、イラン文化圏において絵画は悠久の歴史を持っています。数千年前から残っている多くの作品は、いにしえの時代のイランの各地に熟練した芸術家が存在していたことを証明するものです。


今回も、イランにおける絵画の歴史についてお話することにいたしましょう。

イスラム以後の絵画は、書物の挿絵などの形で広まり、ペルシャ文学と強く結びついていきました。各時代の文学作品は、それぞれの特徴や構造に基づいて、特定の流派に分類されます。イランの絵画の世界にも様々な流派が存在しています。
原則的に、イランの絵画における流派の名づけの仕方は、それぞれの時代を支配していた中央政権に基づくものです。即ち、富や権力が集まり、国の統治の中心とされていたところには全て、様々な場所から芸術家たちが自分の意思で、あるいは支配者の命令によりやむなく、といった形で集まっていました。一定の時期が過ぎてから、これらの人々は絵画の分野での特別な形式の基盤を打ちたて、その後はその町や支配王朝の名前で名声を博したのです。
イランの絵画における流派について評価するにはまず、イラン人の画家ドゥースト・モハンマドの報告からはじめる必要があります。彼は、1544年にサファヴィー朝の王子イブラーヒーム・ミールザーのために作品集を編集し、その序文を執筆しました。この作品集は今日、トルコのイスタンブールにあるトプカプ宮殿図書館の付属博物館に収蔵されています。ドゥースト・モハンマドは、サファヴィー朝のタフマースブ王の時代にしばらくの間、宮殿の専属の画家を務め、イランの絵画の伝統的な画家の1人でした。また、絵画芸術を預言者ダニエルに関係付け、サーサーン朝時代のシャープール王やマーニーについて述べた後、14世紀の絵画について検討しています。

ドゥースト・モハンマドは、14世紀から15世紀のジャライル朝の王たちによる芸術家の保護について述べており、彼らが絵画を愛好していたとしています。この時代、ジャライル朝の首都は、現在のイラクのバグダッドでした。一方で、イランの絵画が急速に発展したのは、天才画家アフマド・ムーサーの存在によります。インド起源の寓話「ケリレとデムネ」における彼の挿絵は、他のイランの絵画や、その歴史においても、特別な輝きと複雑さを誇っています。その後のイランの画家たちが、アフマド・ムーサーに特に注目していることから、その後の時代において彼の主要な作品が完全な美しさを持って再現されていることが分かります。
イランの画家ドゥースト・モハンマドや、そのほかの歴史家の記述によりますと、イランの絵画の最も重要な流派は、アッバースィー派とも呼ばれるバグダッド派、第1タブリーズ派、第1シーラーズ派、ヘラート派、ボハーラー派、ガズヴィーン派、イスファハーン派とも呼ばれる第2タブリーズ派などがあります。これらに加えて、セルジューギー派、ジャライル派、そしてガージャール派もイランの絵画における流派とされています。

バグダッド派は、アッバースィー派とも呼ばれ、イランの絵画の重要な流派の1つです。8世紀にアッバース朝が樹立したことにより、バグダッドはイスラム世界における本の挿絵の中心地として知られ、ここでは科学書や技術書における挿絵の挿入が盛んになりました。この流派の絵画は、地味でありながらも美しいものです。しかも、特に衣服のひだの描き方が注目を集めており、鮮やかなざくろのような赤い色調のデザイン、天使の翼、動物の再現といった要素は、サーサーン朝の芸術に負うところが大きくなっています。これらの絵画では、自然の象徴として樹木の枝や葉が使われています。この絵画のほかの特徴として、背景が色をつけないまま、あるいは単純な色彩の配合がなされていることが挙げられます。
バグダッド派の絵画には、セム系の人々の顔が描かれています。この流派の絵画には、イスラム以前の芸術もある程度見られますが、それはごく表面的なものです。重要なポイントは、当時イランの絵画がアジアのイスラム圏全体はもとより、アフリカやヨーロッパにまで広がっていたということです。
バグダッド派の様式による挿絵の入った書物としては、『ケリレとディムネ』を挙げることが出来ます。この書物の挿絵は、普通のサイズよりもかなり大きく、また限られた数の色しか使われていません。文字による当時の書物は伝説や物語が多く、動物や草花などの挿絵で装飾されていました。こうした書物で最も古いものは、アラビア語による動物の専門書です。この書物には、各種の動物の特徴について説明されており、自然史と伝説と混合しています。この書物に見られる多くの挿絵は、イランの絵画を理解する上で非常に重要なものです。

11世紀以降は、イランの絵画にセルジューギー形式というスタイルが出現しました。この形式は、絵画における初の本格的なイランの流派です。視覚的な点から、この流派においてもアッバースィー派のようにシンプルなものでした。しかし、この流派とバグダッド派との主な違いは、サーサーン朝やイスラム以前の時代や、極東地域の特徴が見られることです。多くの肖像画においては、頭部に光の輪がありますが、これは人物を背景と区別するために使われています。また、頭部が体より大きく描かれ、腕には腕輪が見られます。

イスラム時代の始まりとともに、貴金属の使用が禁じられたことから、陶器の製造が盛んになり、陶器の絵柄はこの時代の絵画の特徴をより強く反映しています。この時代には、イランの著名な詩人ネザーミー・ギャンジャヴィーがハムセと呼ばれる五部作を著しました。この作品は、その後の時代のイランの絵画の模範となり、名声を博しています。この時代の書物への挿絵の挿入は、バグダッド派から離れてより多くのイラン的な特徴を盛り込む形で行われました。この時代以降の書物は、多数残されています。セルジューク朝時代に、歴史的、社会的な情報を記述したモハンマド・ブン・アリー・ラーヴァンディーは、当時の政府が芸術家を経済的に支援したことから、彼らが安心して創作活動に取り組めたことを指摘しています。
セルジューク朝時代には、イランの文化的なスタイルと融合した絵画が数多く存在します。こうしたイラン文化との融合は、その後の時代にも多かれ少なかれ見られます。スコットランドのオリエント学者ハミルトンは、この時代のイランの絵画について次のように述べています。「イランとイラク、トルコ系の民族が流入したが、セルジューク朝の人々はそのさきがけであり、彼らのオリジナルの特性を持った慣習や哲学、文学は出現しなかった」 このことから、セルジューク朝の人々は自らの文化の特徴や文化的な要素の一部を提示したものの、彼らは多くの場合、イランを模倣したということです。このように、時にはイランの絵画の様式との融合が行われましたが、それらは一時的な影響しかなく、それらを本格的なものと見なすことはできません。
こうした融合の実例は、モンゴル軍がイランを襲撃した後の時代のイランの絵画に見られます。モンゴル人は確かに、イランの文化や芸術の影響のもとにあり、芸術家たちを保護・奨励していました。しかし最終的に、モンゴル人がイランの芸術や文化から得たものはそれほど多くはなく、彼らが芸術作品における強い存在感を示すことはなかったのです。この時代の芸術家たちは、技術のみならず、イラン的なテーマにも注目しており、彼らの作品の多くは、イランの英雄叙事詩人フェルドゥスィーの『王書』のようなイランの文学作品の内容を描いています。彼らは、様々なテーマの中でも、文学作品の内容を絵画に表すことに関心を持っており、書物を多数の挿絵により装飾していました。

もっとも、この時代にはイランの絵画に、竜などといった中国風の新しい要素が入ってきたことを忘れてはなりません。イランの歴史家ラシードウッディーンは、イラン北西部タブリーズ近郊にあったイルハン朝の宮殿において、ラシーディーエという名称のアトリエを創設しました。彼はここに、多数の芸術家や作家を集め、彼らを歴史全書というタイトルの歴史的、哲学的な作品に挿絵をつける作業に従事させたのです。これらの挿絵の一部のテーマは、宗教的な内容で、そのほかの一部の挿絵はモンゴルの歴史をテーマとしています。
このアトリエで制作された作品が、中国の絵画に極めてよく似ていることから、このアトリエには中国人の画家も存在していた可能性が考えられます。このアトリエで制作された作品は、特に山を題材とした背景が使われ、中国の唐の時代の絵画を思い起こさせます。ですが、人物の描かれ方は、完全にイラン式です。しかし、このラシーディーエも、創設者のラシードウッディーンが死去した後は閉鎖され、イランの絵画はまた新たな段階に入ることになりました。

 

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