文化芸術最前線 http://japanese.irib.ir Fri, 20 Oct 2017 23:03:01 +0900 ja-jp 第31回ファジル国際音楽祭の盛況ぶり http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/62732-第31回ファジル国際音楽祭の盛況ぶり http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/62732-第31回ファジル国際音楽祭の盛況ぶり


第31回ファジル国際音楽祭は、以前に比べて、大幅に変化しました。それは、音楽祭の中に「バールバド賞」という賞を授与するコンペティション部門が含まれるようになったことです。今夜の番組では、今年のファジル国際音楽祭について取り上げることにしましょう。それでは、どうぞ最後までご一緒ください。
バールバドとは、サーサーン朝時代のもっとも有名な音楽家・詩人で、楽器バルバドの名手だった人物です。現在もバールバドの遺産は、イラン古典音楽の体系、ダストガーに含まれる曲の中に残っているといわれています。バールバドは初めて音楽体系を生み出した人物とされています。今年は、2013年9月から2015年9月までに出されたすべてのジャンルの音楽の500のアルバムを検討し、70人以上のプロの音楽家の意見により、優れた作品にバールバド賞が贈られました。この中で、クラシック音楽や、ポップスについても審査対象となりました
第31回ファジル国際音楽祭では、国際部門として、インドの弦楽器シタールの巨匠シュジャート・カーンや南インドの竹笛・ヴェーヌの名手のシャシャンク・スブラマニャム、フラメンコギターの演奏で知られているアントニオ・レイ、タジキスタンから来たバダフシャーン地方の音楽グループ、フランスの高名なジャズドラマー、アルド・ロマーノ、来日公演を行ったことのあるパキスタンのカッワーリーの名手、ファイズ・アリー・ファイズ、ポルトガルのファドの有名歌手、カマネなど、多数の世界各国の高名な音楽家が公演を行いました。これに加えて、イランのタンブール奏者ソフラーブ・プールナーゼリーとアントニオ・レイのコラボレーションによるコンサートや、スロバキアの若手バイオリニスト、ダリボール・カルヴァイとオーストリアのチェロ奏者のコンサートが行われました。
イランの国内部門でも、イラン音楽における一流の歌手や演奏家、グループが参加しています。弓奏楽器キャマーンチェの演奏家アルデシール・カームカール、弦楽器セタールの名手ベフダード・バーバーイー、弦楽器タールの巨匠マジード・デラフシャーニー、女流音楽家ヘンガーメ・アフヴァーンや、アリー・ラフバリー率いるテヘラン交響楽団などが公演を行いました。
ポップスやフュージョンのグループによる公演も、この音楽祭で大きな支持を得ました。パールト、チャールタール、ダーマーヒー、ハフトなどのグループや、シールヴァーン・ホスラヴィーやエフサーン・ハージェアミーリー、モハンマド、アリーザーデ、モフセン・イェガーネなどの若手歌手による公演は、大きな歓迎を受けました。
テヘラン市内のミーラード・タワーのホールで行われたソフラーブ・プールナーゼリーとアントニオ・レイのコンサートは、ファジル国際音楽祭において記憶に残るもののひとつとなりました。プールナーゼリーはグループのメンバーとともにステージに上がり、歓迎の言葉を述べ、来客に次のように語りました。「今年のファジル国際音楽祭は非常に実りあり、その中で驚くべき出来事が起こっています。私は今回、アルメニアの吹奏楽器ドゥドゥクの巨匠、ジヴァン・ガスパリアン氏とコンサートを行う予定でしたが、残念ながら彼は病気となってしまいました。一方で、私は、フラメンコの音楽家とともにコンサートを行う旧来の夢を持っていました。幸いにも、これは現実となりました」
プールナーゼリーは続けて、次のように語りました。「うれしいことに、あなた方はすばらしい聴衆です。歌が中心でないコンサートのためにこれだけの人が集まってくれました。もし、今回のファジル国際音楽祭が熱を帯びたものになったら、それはあなた方が来てくれたおかげです。」
このコンサートでは、東洋と西洋の象徴的な楽器である、タンブールとギターがともに並びました。この弦楽器による対話は、聴衆を驚嘆させました。
タジキスタンからの音楽グループ「バダフシャーン」は、ファジル国際音楽祭の7日目、手付かずの都市的でない音楽を伝えるため、テヘランのルーダキー・ホールで公演を行いました。この公演では、13世紀の偉大なペルシャ語詩人モウラヴィーの詩が歌われました。このコンサートで特筆すべきことは、2拍子、3拍子のシンプルなリズムが使われたことでしょう。この音楽は、聴衆の心に詩を刻み付ける役割を果たしました。
このグループはまた、もうひとつの部で4拍子の曲により、モウラヴィーの一節を歌いましたが、これはイラン各地におけるモウラヴィー語りを想起させるものです。この部でも、手付かずの都市以外の音楽がそのまま残っている様子を示しました。このグループの歌手は大変高名であり、このグループもタジキスタンで最も知られたグループとなっています。
シャシャンク・スブラマニャムも、ワールドミュージック部門で演奏を行った音楽家の一人です。彼は2009年グラミー賞にノミネートされたという経歴を持っています。彼はイランの音楽家に協力したいという大きな意向を表明し、次のように語りました。
スブラマニャムは、次のように語っています。「私は30年以上、インド古典音楽で活動しており、これまでに50カ国以上を訪れ、さまざまなジャンルの音楽家と、多くの共同作業を行ってきた。にもかかわらず、豊かな文化を持つことで知られているイランでの公演は、常に私が夢見たことだ」
スブラマニャムはまた、次のように語っています。「ヨーロッパのツアーの中で、イランの音楽家やイランの打楽器奏者と知り合うことで、私はその豊かさにより、イランの音楽と音楽家を大いに評価した。私はイランのもっとも偉大な音楽家と会い、音楽祭の中ですばらしい曲を聴くのを待ち望んでいる。必ずイランの音楽家と共同作業を行いたいと考えており、将来、面白いイランとインドのコラボ作品を生み出すよう希望している」
さらに、公演の中で、多くのイランの楽器を見た、その名前と奏法についてはよく知らないが、それについて多くのことを知ろうとしており、すばらしい興味深い楽器をインドに持ち帰りたいとしました。
アジア・ヨーロッパ諸国の権威ある音楽祭の責任者の多くが、ファジル国際音楽祭の時期にイランを訪れ、この音楽祭における公演を見ていました。スイス・ジュネーブの民俗博物館のディレクター、オランダのフェスティバルの企画者、ベルギーの音楽センターの次長、パキスタン国立伝統・地方遺産機構の執行部長など、多くの人々がこの音楽祭の来賓となっていました。
また、フランスやチュニジア、オーストリアなどからも、多くの音楽祭の関係者たちが外国の賓客として、今回のファジル国際音楽祭の公演を視察しました。
このイベントは、イランとほかの国の間の音楽的、文化的外交の中で実現しました。第31回ファジル国際音楽祭は、公演のために外国の音楽グループを招聘するとともに、イランの芸術家が、世界的に重要な音楽イベントに参加する下地をも整えているのです。

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文化芸術最前線 Thu, 03 Mar 2016 13:06:17 +0900
第34回ファジル映画祭を振り返って http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/62389-第34回ファジル映画祭を振り返って http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/62389-第34回ファジル映画祭を振り返って

このイベントは、ファーラービー映画財団の主催で、イランのイスラム文化指導省の監督により行われるもので、昨年からは国内部門から離れ、別途に5月に開催されるようになりました。

第34回ファジル映画祭の閉会式は今月11日、テヘラン市の西地区にあるミーラード・タワーのサロンで開催され、受賞した作品や受賞者が発表されました。今回は、「イランの不死鳥スィーモルグを求めて」の部門に22の作品が出品され、また「新たな視点」部門には11の作品、そして「芸術と経験」部門に11点の作品が出品されました。さらに、今回は初めて8つのアニメーション映画が参加し、審査にかけられました。さらに、「現実の映画」部門にも11点のドキュメンタリー映画が出品されています。今回は、第34回ファジル映画祭の審査結果とその入賞作品についてお伝えすることにいたしましょう。

 

ドキュメンタリー映画部門

ドキュメンタリー映画部門では、ベヘルーズ・ヌーラーニープール監督の映画「A157」が最優秀作品賞に選ばれ、また最優秀監督賞には、映画「夜明けの幻想」を制作したメフルダード・オスクーイー監督が選ばれました。そして、芸術・技能賞に選ばれたのは映画「一方通行の人々」の撮影に当たったレザー・テイムーリー氏でした。

最優秀作品賞を受賞したヌーラーニープール監督は、これまでに価値あるドキュメンタリー作品を多数制作しており、映画「A157」を制作した動機について次のように述べています。「この作品において、私の視点は現代の世界での人間性に関する議論が本筋から外れていることに向けられている。制作班は、権力しか考えず、人間性の問題など眼中にない人々の好戦主義や、タクフィール派の組織による攻撃におけるシリア人の少女たちの苦痛の一部を描くことに努めている」

ヌーラーニープール監督は、テロ組織ISISの拡大とその残忍さについて、次のように述べています。「ISISが多くの西側諸国の支援を受けて、テロ作戦に手を染めていることは明白である。なぜなら、そもそもこの組織は西側諸国の指導者らにより結成されたからである。こうした中で、シリアの罪のない人々が権力を求める勢力に翻弄されている。この問題には、現実に発生している残忍な行動に対して立ち上がり、様々な方法で真実を暴こうという、世界各国での人々や芸術家による反応が必要である。ドキュメンタリーも、私たちの身の周りの現実を示す上で最高の手段だと言える」

映画「A157」は、これ以前に他の複数の映画祭でも上映されており、ISISとの戦争で父と母を殺害された後、トルコ国境付近のキャンプでの生活を余儀なくされた3人のシリア人の少女の生活を描いています。彼女たちの暮らしのストーリーのあらすじは、テロリストにより自らの生活場所を攻撃され、父親が殺害され、母親が捕虜として拘束されたこと、そしてキャンプの中で彼女たちに降りかかった全ての苦い出来事などとなっています。しかし、ストーリーはこれで終わりではありません。この3人の純朴な少女たちは、他人の目が気になるため決して口には出せない、大きな悩みを抱えています。彼女たちはまだ年若いために、この問題にどう対処してよいのかも知りません。彼女たちは、何者かにレイプされてしまい、妊娠しています。この映画ではこの時期の彼女たちのつらい生活が描かれています。

この映画の制作者は、視聴者がこの3人の少女たちの生活状況を理解でき、感銘を受けるよう、映画のストーリーを巧みに、そして効果的に進行させています。確かに、彼女たちに降りかかった出来事は回避できないものであり、これらの苦痛な出来事は抑圧された人々に対する不平等な戦争が生み出したものです。しかし、自らの正当性や敵の不当性を明かすという、この少女たちが抱く意欲や希望を示すことで、少しは苦痛を和らげることができるのかもしれません。

映画「永久と1日」

イランの著名な7名の映画評論家で結成された審査員団は、今回のファジル映画祭の「不死鳥スィーモルグを求めて」部門の賞を授与しました。この部門では、2015年に制作されたサイード・ルースターイー氏の監督と脚本執筆による映画「永久と1日」が注目を集め、入場者の投票による最優秀作品賞をはじめとする9つのクリスタル・スィーモルグ賞を受賞しています。

ルースターイー氏は、若手の映画制作者であり、これまでに高品質の短編映画を制作しており、今回の出品作である「永久と1日」は、彼が初めて手がけた長編映画です。この映画のストーリーは、娘たちの1人の結婚式の準備を整えるある家族を扱っています。そのあらすじは、偶発的な出来事によりこの家族内の兄弟姉妹関係が冷却化し、最終的に予想外の出来事が起こるというものです。

映画「永久と1日」は、多くの問題に苦しみながらも、希望を失わない貧困層の家庭の物語を描いています。この家族はそのために、今もって些細な出来事にこだわり、よき日の訪れを待ちわびているのです。当然、このような貧困層や彼らが抱える問題を扱うことは、決して目新しい特別なことではありません。しかし、この映画のストーリーを斬新さや独自性のあるものにしているのは、ある種の人々を見つめるために選ばれた、この映画の世界観や物事を捉える角度だといえます。それは長所と短所の双方を持ち合わせ、自分の弱点を知っていて、決して大口をたたかない人々です。この映画では、型破りで現実的な視点が作品のいたるところに取り入れられています。

映画「もやの中に立ちぬ」

第34回ファジル映画祭ではさらに、2015年にモハンマド・ホセイン・マフダヴィヤーン監督により制作された映画「もやの中に立ちぬ」が注目を集め、様々な部門での3つの賞に加えて、最優秀作品賞を受賞しました。この作品は、イラン・イラク戦争の司令官の1人ハージアフマド・モタヴァッセリヤーンの生涯を、幼少期から前線への出征、そして行方不明になるまでの時期にわたり描いています。また、この作品では戦争時代から残っている多くの殉教者の声が使用されており、実際の戦争の舞台を巧みに、臨場感あふれる形で再現しています。マフダヴィヤーン監督はこれまでに、イラン・イラク戦争や戦士たちの生涯を描いた幾つかのドキュメンタリー映画を制作しています。

この映画の主人公のアフマド・モタヴァッセリヤーン・ヤズディーは、1954年にテヘランで生まれ、イラン・イラク戦争時代にイランのイスラム革命防衛隊の司令官を務めていました。彼は、1983年にレバノンでシオニスト政権イスラエル軍により、拉致された4人のイラン人外交官の1人です。その後の彼の消息は不明であり、当時の一部の情報筋は、彼がシオニストの手にかかって殉教したと述べていますが、一部の人々は彼の殉教を確認しておらず、彼が刑務所に収監された事実のみを認めています。いずれにせよ、映画「もやの中に立ちぬ」は、後世にまで名を残したこの戦士の生涯と、彼の多大な努力を描いています。

 

第34回ファジル映画祭の概評

第34回ファジル映画祭の各部門を振り返ってみると、「不死鳥スィーモルグを求めて」部門の作品の多くは、社会的、家庭的な内容を扱っていたといえます。今回の映画祭における多くの映画制作者が注目したのは、家族関係や、各家庭が社会の中で直面している問題に関する内容でした。これらの映画の中には、視聴者に対しこうした問題の頭痛の種としての辛さを実感させる作品もあり、また中には間接的にこうした社会問題を扱っている作品もありました。さらに、今回の映画祭では警察関係のテーマや風刺的なストーリーも、イランの映画制作者の注目を集めていました。

こうした中、イランの映画界ではイランイラク戦争という聖なる防衛や抵抗というジャンルの映画も制作されており、そうした作品の1つに、エブラーヒーム・ハータミーキヤー監督の映画「ボディーガード」があります。さらに、ナルゲス・アーブヤール監督の映画「息遣い」は、1980年代の対イラク戦争と1970年代を背景とし、父親と祖母とともに暮らす4人の子供たちの生活を描いています。この作品は、今回の映画祭の閉会式で見事にスィーモルグという最優秀作品賞を射止めました。さらに、閉会式では「映画の家」の管理人を務めるレザー・ミールキャリミー氏が、来場者投票の結果による最優秀作品を発表しました。この投票で獲得票数のベスト5に入った作品は「ドラゴンが入ってくる」、「もやの中に立ちぬ」、「バーコード」、「ボディーガード」、そして「永久と1日」です。最終的に、来場者投票による最優秀作品賞は、映画「永久と1日」の制作にかかわったサイード・ルースターイー監督と、サイード・マラカーニー氏の両氏に授与されています。

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文化芸術最前線 Thu, 18 Feb 2016 17:20:46 +0900
イランにおける学術面での大躍進 http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61859-イランにおける学術面での大躍進 http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61859-イランにおける学術面での大躍進 文化芸術最前線 Thu, 28 Jan 2016 18:11:54 +0900 民族性あるコンピュータ・ゲームの開発 http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61672-民族性あるコンピュータ・ゲームの開発 http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61672-民族性あるコンピュータ・ゲームの開発


今回は、民族性のあるコンピュータ・ゲームの開発の必要性についてお話することにいたしましょう。
今日、携帯電話やスマートホン、タブレットをはじめとする先進デジタル機材の普及、そしてこうした機材の使用の低年齢化により、コンピュータ・ゲームが特別な位置づけを帯びています。現在、メディア産業においては、ゲームの利用はユーザーの娯楽目的のためのみならず、宣伝や教育、治療といったより真剣な目的のための機能が注目されています。
その一方で、コンピュータ・ゲームの利用はユーザーに深刻な弊害をもたらすこともあります。今や、コンピュータ・ゲームによる弊害の調査は急務ですが、それには家庭のほか、文化的な政策や決定に関わる責任者の注目も必要です。このため、技術、芸術、経済、文化、宗教、倫理、教育、心理学、社会学、そして健康医療の点からコンピュータ・ゲームを検討し、科学的にアプローチすることは、重要な成果をもたらすと考えられます。
教育や訓練、技術、経済、政治、文化、社会といった分野に対するコンピュータ・ゲームの影響は、決して否定できません。このことから、これらの分野における実践的、研究的なアプローチの拡大の必要性が高まっています。コンピュータ・ゲームによる社会や精神面での破壊的な影響については、開発者の政治的、信条面での価値観の刷り込み、電子ゲームへの依存症、女性の新たなアイデンティティの提示といった特別な文化的価値観の一部の伝播などが挙げられます。例えば、西側諸国のゲーム開発者は、女性を裸体や暴力と抱き合わせにして捉えており、彼女たちを道具のように利用しているのです。
政治や信条面での刷り込みという点においても、西側諸国で開発されたコンピュータ・ゲームは第3世界を侮辱しています。西側諸国の覇権主義路線に対抗する国々は、これらのゲームにおいてユーザーの攻撃の対象とされ、色々な方法によって滅ぼされてしまいます。さらに、これまでの事例から、西側諸国のコンピュータ・ゲームの開発者が提示し、吹き込もうとしている内容は、宗教的な概念における価値観の激しい動揺や、イスラム的なシンボルや価値観への攻撃であることが分かっています。

世界の一部の国は、コンピュータ・ゲームの各国の文化や価値観に合わせて段階分けするシステムを設けています。例えば、イランは2000万人以上のコンピュータ・ゲーム人口を抱え、またこの20年間でコンピュータ・ゲームが急速に普及していること、そして国内のコンピュータ・ゲームの開発者がゲーム市場への参入に注目していることから、この文化的な問題を真剣に考えている国の1つと言えます。
イランでは、ゲーム開発産業はまだ最近出てきたばかりの産業と見なされています、イラン国立コンピュータ・ゲーム財団の発表によれば、国内のゲーム開発企業の数は30に上り、これらの企業により開発されたゲームの数は150を超えるということです。今から7,8年前の時期には、宗教、精神医学、社会学、メディアの各チームという枠組みで、著名な専門家の協力により大規模な作業がスタートしました。ここでは、ESRAと呼ばれるコンピュータ・ゲームの段階分けシステムが立ち上げられています。これによると、コンピュータゲームはユーザーの使用年齢にそって、3歳以上、7歳以上、12歳以上、15歳以上、18歳以上、そして25歳以上の6つのグループに分けられています。
これについて、最近出版されたコンピュータ・ゲーム関連の書籍が挙げられます。それは、『コンピュータ・ゲーム空間の二分化に関する研究―コンピュータ・ゲームに対する各地域、信条的な価値観によるアプローチ』というタイトルの書籍です。これは、幼児、児童青少年の余暇時間におけるコンピュータ・ゲームの重要性と位置づけ、コンピュータ・ゲームの教育・訓練的な側面について説明し、民族的な文化に基づいてコンピュータ・ゲームを評価・格付けするシステムを立ち上げる目的で出版されました。この書籍は、イランにおけるコンピュータ・ゲームの分野で特に優れた書籍の1つであり、この分野における包括的なアプローチにより、すべてのレベルにおいて複数の研究に注目しています。そのため、この書籍は文化政策の分野で、コンピュータ・ゲームの開発者やユーザー向けに、さらには学問・大学用としても参考書として利用できます。
この書籍の序文には、次のように述べられています。
「コンピュータ・ゲームは、驚くべき可能性を秘めていること、そして教育や文化形成の分野などで発展を見せていることから、この分野の活動家や思想家の注目を集めている。この大いなる可能性がゆえに、コンピュータ・ゲームの開発者はこの分野に関する深い認識と理解が必要であり、形式と内容の間に意味ある適切な関係を作るための方法を知っておくべきである」
『コンピュータ・ゲーム空間の二分化に関する研究』は、5つの章で構成されており、それぞれの章では様々なレベルでのコンピュータ・ゲームに関する研究が述べられています。この書籍の執筆者であるサイード・レザー・アーメリー博士は、包括的な捉え方、そして信条的、地域的な捉え方にそったアプローチにより、世界レベルでのコンピューター・ゲーム空間に注目を寄せるとともに、これらのゲームの地域的な背景にも焦点を当てています。彼は、こうしたゲームに関する学説的な議論に注目する一方で、イランにおけるコンピュータ・ゲームの状況にもスポットを当てています。また、コンピュータ・ゲームを政治、文化、法律、経済、技術の点から分析した結果を提示しており、これはゲームの製造者や開発者も活用できるものです。
しかし、この書籍の最も優れた重要な特質は、信条的、地域的なアプローチであると思われます。この著作では、イスラムの叡智という体系にそって、コンピュータ・ゲームに必要とされる次の3つの要素を提示しています。その1つは、宗教や道徳の原則と世界観に基づいたものであること、次に集団社会の原則に基づいたプロセスを提示していること、そしてメディア、文化的な生産品と見なされる内容であることです。筆者は、これらの必要事項のそれぞれについて詳しく説明した後、この文化的な産物がイスラムの教えにそったものであるべきで、しかもイスラムの侵されざる領分が守られるべきだという結論を得ています。
専門家によるこうした調査によれば、この問題をより鋭い観点から正確に捉えることが必要であるとされています。イスラム的な価値観に沿った地域的な計画を立てることは、青少年が西側諸国による不適切なプログラムを歓迎しなくなるための重要な一歩です。さらに、子供を持つ親は、子供の年齢に相応しいコンピュータ・ゲームの選択、そして自宅外の行き来などについて、子供の様子をそれとなく遠くから見守ることにおいても、細心の注意を払う必要があります。
イスラムの文化には、時代の経過とともに宗教的、人間的なアイデンティティのシンボルや伝説となった英雄や主人公が数多く存在します。こうしたシンボルや伝説を活用することは、全てのイスラム諸国におけるコンピュータ・ゲームの製造開発を国内製のものにする上で、価値ある一歩となります。例えば、イランではこうしたゲーム開発技術が盛んになることで、芸術とも言えるこの一大産業が自らの文化を高め、他国に紹介するための貴重なチャンスになりつつあります。

この分野におけるイランのゲーム開発業者の努力は、確実に世界におけるイラン製のゲームの位置づけの向上にもつながるといえるでしょう。

 

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文化芸術最前線 Thu, 21 Jan 2016 17:18:30 +0900
ユネスコ創造都市ネットワーク(2)―多様な食文化を誇るイラン北部ラシュト http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61506-ユネスコ創造都市ネットワーク(2)―多様な食文化を誇るイラン北部ラシュト http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61506-ユネスコ創造都市ネットワーク(2)―多様な食文化を誇るイラン北部ラシュト


これらの都市は、クラフト及びフォークアート、デザイン、映画、食文化、文学、メディアアート、音楽の分野における可能性に基づいて、世界33カ国から選ばれています。これらの都市のうち、イスファハーンは伝統工芸が盛んであること、そしてラシュトは多様な食文化を有するという理由で選出されました。
ユネスコ創造都市ネットワークは、2004年に創設され、現在は世界の116の都市がこれに加盟しています。このネットワークの目的は、加盟都市がクリエイティブ分野への投資を目的とした国際協力を強化することです。ユネスコの見解では、創造力は都市の向上的な発展や社会的な協力、文化的な新しさを誘導するものとされています。今回、イランからは北部のカスピ海沿岸の都市ラシュトが、食文化の多様性を評価され、このネットワークに加盟しました。このことは、この町のブランド化という最も重要な目的の1つに向かう決定的な歩みとされる点で、きわめて重要なものです。
イラン北部ギーラーン州の中心都市ラシュトは、テヘランの北西およそ300キロに位置し、標高は平均で5メートルです。この町の南部には、アルボルズ山脈があり、北はカスピ海とアンザリー潟に面しています。この町は当初、森林地帯の中にある大きな村落であり、イランの古い都市の1つと見なされています。因みに、ラシュトという地名は、10世紀ごろに記された書物にも見られます。

ラシュトには、多様な民族や方言が存在します。この町の属するギーラーン州は、イランで最も小さい州の1つですが、イランの他のどの州よりも文化的な多様性が見られます。この州の各地に様々な民族が平和的に共存するようになってから、数百年が経過しています。こうした共存により、共通の文化が生まれると同時に、これらの民族はそれぞれの民族性や個別の方言を維持してきました。こうした豊かな文化は、ギーラーン州の人々の伝統や慣習にも現れています。こうした古くからの慣習は、長年が経過した今なお、ギーラーン州の人々、そしてラシュトのような近代的な都市に住む人々にも見られます。
ギーラーン州の豊かな文化を示すものの1つは、その多様な食文化です。この州では、170種類以上の料理が存在し、冬場だけでもおよそ60種類もの郷土料理が作られています。ギーラーン州およびラシュトの有名な郷土料理には、焼きナスをつぶしてトマトや卵などと混ぜたミールザー・ガーセミー、肉をざくろのペーストとクルミの粉末で煮込んだフェセンジャーンなどがあります。この州の郷土料理がこれほどバラエティに富んでいるのは、野菜が豊富にとれ、気候が多様であることによります。ギーラーン州の温暖な気候は、各種の果物や豆類などの栽培に適しています。
料理は、あらゆる社会においてその社会の人々の文化、気候、生活体系におけるアイデンティティに則しているといえます。人間とそのほかの動物の大きな違いの1つとして、調理をすることが挙げられています。フランスの社会人類学者レヴィ・ストロースは、著作『生のものと火を通したもの』において、調理という行為を、自然から文化に移行するプロセスを示すものであるとし、人間の条件がその全ての属性を含め定義されているとしています。
過去においては、良好な農業経済に恵まれ、農産・畜産加工品といった豊かな食材を調達できていた社会では、料理の文化や調理の技術の多様性、食材の生産と分配が発達し、普及していました。また、農耕に適した経済や気候状態にない社会では、食文化の水準が低く、食材の種類も少なかったのです。イランは、驚くほど食の多様性に恵まれています。
生の食材を食べられるようにする方法、そしてイランの様々な調理法は、500年ほど前のサファヴィー朝時代から残る2つの書物に収められており、これらはイランが先進的で複雑な調理技術で長きにわたる歴史有していることを示すものです。イランの作家で翻訳家のナジャフ・ダルヤーバンディー氏は、イランの多様な料理と食材に関する著作において、次のように述べています。
「イラン料理には、その本質を特徴ある有名なものにした、イラン文化から生まれた秘密が隠されている。イラン料理は、絨毯や建築、神秘主義思想、イラン文学のように、非常に進んだ芸術であるとともに、絨毯のように、イランの女性たちによる理屈抜きの成果であるといえるものであり、この芸術は生命を生み出す泉のように、イラン国外でも料理という芸術の幅広い領域をカバーしているといえる。イラン料理はまた、イスラム諸国の国民やインド亜大陸の人々の間で、料理の主流となり、スペインやイタリアの文化を経由して、南ヨーロッパの料理文化にも入り込んでいった」

イランの人々は、紀元前のアケメネス朝時代から米の存在を知っており、豊かな水資源と温暖な気候に恵まれた地域では米作を行っていました。イランの伝説における歴史には、次のように述べられています。
「食物の調理は、ザッハーク王の時代から始まった。イランの食材の名称や調理法の表現の多くは、アラビア語をはじめとする外国語の書物に見られる」
全ての料理は、使い方や調理法、材料、そしてその食材が普及している、あるいは知られている地域によって分類されます。最も重要なイラン料理には、豆と骨付き肉の煮込み料理アーブグーシュト、肉と野菜、インゲン豆の煮込み料理ゴルメサブズィ、そしてキャバーブと呼ばれる各種のイラン式の焼肉などがあります。イラン料理は大きくいくつかに分類することができ、それらはスープ風のアーシュ、ペースト状のハリーム、豆と肉の煮込み料理アーブグーシュト、クークーと呼ばれる各種のオムレツ、肉団子風のクーフテ、ピーマンやナスなどにひき肉を詰めたドルメ、各種の混ぜご飯、肉と野菜、豆を煮込んだおかず・ホレシュトなどです。
ギーラーン州は、イランで最も重要な稲作地帯であり、重要な食材の1つは、容易に調達できます。さらに、カスピ海に面しており漁業が盛んであることから、この地域の人々の食材は多様性に富んでおり、また魚料理がたくさん出てきます。
海から取れる食材は、豊富なタンパク質を含みコレステロールが低く、さらに各種のビタミンや塩分も含んでいます。魚肉には、ビタミンA、B、D、カルシウム、リンのほか、少量の鉄分、銅、セレンも含まれています。栄養学の専門家は、特に心臓疾患を持つ人をはじめとする全ての人々に対し、週に2回、1回につき90グラムの魚を食べるよう奨励しています。ギーラーン州の人々の平均寿命が長い理由の1つは、魚を食べていることにあります。因みに、2013年のギーラーン州の人々の平均寿命は75歳で、これはイラン全体の平均寿命より3年ほど長くなっています。

19世紀のポーランドのイラン学者、アレクサンダー・コズコは、『ギーラーン州の地』という書物において次のように述べています。
「イラン全土において、至る所に野鳥が生息しているのはギーラーン州だけである。この州の調理技術は、テヘランの宮廷でも名声を博している」 さらに、20世紀初頭のある作家は、ギーラーン州の郷土料理について次のように述べています。「ギーラーン州の主要な料理は、米と塩漬けの魚の切り身である、この州の人口の多い地域では、ナンはあまり食されない」
さらに、ギーラーン州、特にラシュトの料理が多様性に富んでいるもう1つの理由として、年間を通して様々な時期に多様な種類の野菜や果物がたくさん収穫されることが挙げられます。中でも、最も重要なのは野菜を使ったメニューの多様さです。ギーラーン州は郷土料理のメニューがバラエティーに富んでいるという点で、イランで随一といえます。ギーラーン州の郷土料理は、この緑豊かで美しい州の観光面での強みであり、ギーラーン州を訪れた人々は決して、この地の郷土料理の味を忘れることが出来ないと思われます。

 

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文化芸術最前線 Thu, 14 Jan 2016 23:34:22 +0900
ユネスコ創造都市ネットワーク(1)-イラン中部の手工芸都市イスファハーン http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61296-ユネスコ創造都市ネットワーク(1)-イラン中部の手工芸都市イスファハーン http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61296-ユネスコ創造都市ネットワーク(1)-イラン中部の手工芸都市イスファハーン

 

「このネットワークに新たにほかの都市が加盟することは、世界が恒常的にバランスの取れた持続可能な発展を遂げる上で、価値ある機会である」

「ユネスコ創造都市ネットワーク」の創設は、ユネスコの計画の1つであり、持続可能な発展というアプローチによるものです。これは、2002年から計画がスタートし、2004年に加盟国の承認により最終的に採択されました。今回は、イラン中部の都市イスファハーンがこのネットワークの認定都市に選ばれたことに因み、イスファハーンの手工芸についてご紹介することにいたしましょう。

 

ユネスコ創造都市ネットワークの沿革と認定基準

ユネスコ創造都市ネットワークを採択したユネスコの目的は、各都市の文化的な新しさや発展の速度の原動力としての創造性を紹介することです。規約により、このネットワークに加盟する都市は、その都市の活動における精神的な指標となる文学、食文化、クラフト・フォークアート、音楽、メディアアート、デザイン、映画という7つのうち1つを有する必要があります。

2004年から現在までに、ユネスコ創造都市ネットワークには世界の116の都市が加盟してきました。今回、イランからは初めてイスファハーンと、北部カスピ海沿岸の都市ラシュトがこのネットワークへの加盟を果たしています。イスファハーンは、手工芸とフォークアートの町として、またラシュトは食文化の町として選ばれました。これらの都市は、33カ国の中で認定されています。

 

創造都市ネットワークへのイスファハーンの加盟までの過程と今後

イスファハーンは、様々な文化的基準を有しています。この文化的、歴史的な都市は2011年に一度、イラン北東部ネイシャーブールと南部シーラーズの2つの都市とともに、ユネスコ創造都市ネットワークの認定候補になる前に、ICCN・国際無形文化都市連合に加盟しています。芸術を中心としたイスファハーンの歴史により、この町のユネスコ創造都市ネットワークのクラフト・フォークアートの分野での認定の手続きが速やかに進められました。

このネットワークへの加盟は永久的なもので、これに加盟した都市はユネスコの基準に沿って活動する必要があります。即ち、このネットワークに加盟したという意味で、情報の共有における大きな可能性を手に入れることになります。例えば、ラシュトは食文化の分野でのこのネットワークへの加盟都市があるスペインやイタリアのような、世界のほかの2つの地域と情報交換ができるのです。実際、その最も重要な目的は、このネットワークに加盟している各都市が互いに交流することなのです。

このネットワークに加盟する創造都市は、世界規模での観光業の発展のための良好な環境を見い出し、観光客が集まる場所となります。これらの都市は実際に、文化面で最も素晴らしい都市として、ユネスコに登録されているのです。

 

イスファハーンの歴史とあらまし

イスファハーンは、テヘランから435キロ離れたイラン中部に位置しています。標高はおよそ1570メートルで、東部と北部は砂漠に隣接しており、西部と南部はザグロス山脈につながっています。イスファハーンの50キロ北にはキャルキャス山脈が、また南西にはザルドクー・バフティヤーリーという山があります。この山を水源とするザーヤンデルードなどの河川が存在していることから、イスファハーンの町が形成されることになりました。

1591年、アッバース1世の命によりサファヴィー朝の首都がテヘランの西にあるガズヴィーンからイスファハーンに移されました。この時代に、イスファハーンの人口は100万人に達し、商業や文化の中心地として急速に発展します。サファヴィー朝時代は、イランにおいて都市開発や建築がこの上ないほど発展し、完成した時代でした。実際に、イスファハーンでイランの建築芸術の発展がきわみに達したのは、イラン北西部アーザルバーイジャーン地方にあるジョルファーの町から来た芸術家たちによります。

イスファハーンは、イランにおけるイスラムの文明と文化の首都とも呼ばれています。サファヴィー朝の歴代の為政者に注目されたこと、また勤勉なイラン人芸術家の努力により、イスファハーンでは数多くの傑作が生まれました。サファヴィー朝時代のイスファハーンには、最もきらびやかなモスク、壮大な広場、最も壮麗な橋や街路、最大規模のバザールや学校、隊商宿が造られたのです。これらの建造物は全て、芸術の最高峰を極め、堅固で機能的であり、そのうちの一部は、時にはこれが人間の造ったものであるとは信じがたくなるほど、きわめて壮麗で完成度の高いものとなっています。

手工芸のあり方について

手工芸は、あらゆる国の人々の趣向や芸術を示し、先祖の芸術と技術を物語るものです。手工芸は過去の全ての時代において、盛んに行われていました。機械が出現していなかった、あるいは現代ほどに広まっていなかった時代には、手工芸は人間の建設的な創作活動や才能の全てを支援していたのです。このため、現在あらゆる民族や部族の手工芸を見れば、その民族が工芸技術のどの段階にあったかが理解できます。

工芸家の創造能力や創造的精神、そして彼らの芸術作品の創作への関心により、イランは非常に古い時代から現在まで常に、手工芸品の生産において特別な位置づけにあり、世界で名声を博していました。そのため、有識者の多くは、イランをアジアや世界の手工芸の3大拠点の1つであり、その多様性では世界最大と考えています。

イスファハーンの手工芸について

イスファハーンの手工芸は、過去数世紀にわたり、世界におけるイランの人々に特有の芸術の代表とされてきました。このため、イスファハーンはイランの手工芸の発祥の地と言っても過言ではありません。その理由は、芸術や趣向、勤勉さ、節制という、イスファハーンの職人気質の特徴により、イスファハーンの手工芸品はイラン国内に多くの顧客を抱えているのみならず、この町の手工芸に関心のある外国人や外国人観光客からも求められているのです。

イスファハーンの伝統的な経済は、絨毯や絹織物、彫刻、銅細工、象嵌細工、錦織,金糸縫い取り、絵画、陶芸、エナメル細工、金属加工、トルコ石を使った細工、銀細工、化粧タイル製造、ペルシャ更紗といった手工芸に基づいてきました。実際、世界の都市の多くでは手工芸の数が限られているのに対し、イスファハーンには実に196種類もの手工芸が存在しています。イスファハーンは世界で唯一、多様な手工芸が存在する都市であり、この町の人々は手工芸により収入を得ています。なお、この町の手工芸のうち102種類はユネスコに、また190種類は国の無形文化財に登録されており、このことはイスファハーンが手工芸の分野で高い可能性を有していることを示しています。

イランには、15の系統に分かれた370種類の手工芸が存在しており、そのうち196種類がイスファハーンで行われています。このため、イランにおいて手工芸で最も優れた都市はイスファハーンということになります。現在、イスファハーンには数十の大規模な手工芸工場、さらに8000に上る個人の工房があります。さらに、ユネスコに提出された統計によりますと、ユネスコに登録された全世界の602種類の手工芸のうち、およそ3分の1がイスファハーンのものとされています。

歴史が物語る通り、イスファハーンの手工芸も世界各地の手工芸と同様に、当初は人々の日々の暮らしのニーズを満たすために生まれたものでした。こうした中、イスファハーンの手工芸は今から500年ほど前のサファヴィー朝時代から変化し始めたのです。当時のイランの哲学者シェイフ・バハーイーは,イスファハーン市内にあるナクシェジャハーン広場周辺の芸術家や職人を集めて組織化し、手工芸品の大量生産に一大変化をもたらしました。こうして、銅細工の鍛冶師や布地商人、絨毯職人、象嵌細工師といった市場が形成されていったのです。このような状況により、サファヴィー朝時代から400年以上が経過した現在、イスファハーンでは3万人以上の手工芸職人が存在します。

イスファハーンは、観光客が手工芸品を買い求める際にイスファハーンの工芸職人の熟練度を披露する計画が実施されています。このため、手工芸の工房の多くは、手工芸の販売店の傍らにあります。心を沸かせるイスファハーン市の手工芸は、市内のナクシェジャハーン広場とこれに隣接したゲイサリーエのバザールで扱われ、この町の職人の芸術の輝かしい側面と多様性を物語っているのです。

 

 

 

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文化芸術最前線 Thu, 07 Jan 2016 17:42:50 +0900
イランの絵画と文学の繁栄(5) http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61139-イランの絵画と文学の繁栄(5) http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/61139-イランの絵画と文学の繁栄(5)

 

さらに、イランの絵画が時の経過とともに大きな変貌を遂げ、様々な特徴を持つ流派と最も重要な流派についてお話しました。このシリーズの最終回となった今夜は、イランが誇る偉大な細密画家マフムード・ファルシュチヤーン画伯についてお話することにいたしましょう。

 

イランの絵画における細密画と、その正しい定義について

一部の資料や有効な文献においても拡大している誤りについて、ここで指摘することにいたしましょう。こうした資料では、イランの絵画をミニアチュール、即ち細密画と呼んでおり、多くの人々もこれらの資料を根拠として、イランの絵画について語る際にこの用語を使用しています。ミニアチュールという言葉は、中世時代の写本の赤色インクに鉛丹が使われていたことにちなみ、ラテン語で鉛丹を意味するミニウムから派生したものです。この言葉は、中世における装飾的な絵画をさしています。その例として、当時はイスラム書道の書体の1つ・ナスフ体による装飾には赤系統の暖色が使われています。

イランとヨーロッパ諸国の交流が拡大するにつれ、次第にミニアチュールという単語がオリエント学者や研究者の間に広まり、この単語がイラン式の絵画に対する名称として使用されるようになりました。古い画集や小さめの書物に残されている1ページ単位の絵画は、ミニアチュールという単語が当初、手書きの写本に類似した一部の例に使用されていたことを示しています。しかし、その後の時代においては、一般的にイランの絵画を指すようになりました。もっとも、正確な研究からは、これが誤りであり、イラン式の絵画を指すのにイラン的な言葉や表現以外は用いることはできないことは明らかです。

 

イランの絵画の特徴

イランの絵画では、絵画と現実の世界との類似性はありません。立体的な画法、光や影さえも使用されず、遠近法には従っていません。また、人物の表情のほとんどは若々しく描かれており、それらは時には性別のないように見えますが、それらの中には性別のはっきりしない人間の顔は存在しません。また、肖像画のほとんどには、春の日の光が差しています。たわわに実をつける樹木は、花と緑の葉で生い茂り、緑の葉のない樹木はほとんど見られません。

イラン式の絵画では、たいてい横向きの馬が描かれており、ごくまれに正面を向いた、あるいは後ろ向きの馬も見られます。画家たちは、これらの絵画の傍らで、素描も行い、これを非常に重視していました。これらのデザインは、非常に細やかで美しく、長い曲線で描かれており、時には金色とともに1つあるいは2つの色を使用して、作品を完成させています。

これらのデザインを見てみると、色彩よりも曲線とその様々な状態が重視されていることが分かります。それらにおいては、様々な線があたかも動き出そうとしている、あるいは決まった方向に動き、何かを示そうとしているように思われます。とにかく、これらの曲線は見る者の目を惹きつけ、その動きから取り残されることはできません。これらの線は、時には画面の上の部分でらせん状に渦巻き、雲をイメージさせたりします。もっとも、こうした動きはイランの絵画や素描だけに見られる、ということはありません。

一方で、イランの絵画は色彩の利用の点でも、非常に多様性に富んでいます。精神性を表す色は普通、細く細やかなデザインに使われ、制作者の人間性や穏やかな感情を物語っています。それはまた、人間の本質的な清らかさを根源とする感情や、内面を表すために使用されています。

イランの絵画で使用されるもう1つの色は、不透明な色です。この種の色彩は、より濃厚で安定感があり、作業工程の多い作品の製作に使用されるとともに、人間的で繊細な感情に反する状態や特質を再現します。様々な動物や鳥を描いた寓話的な絵画は、樹木の枝葉や花、唐草模様、中国的な模様が描かれ、重要な部分を構成しています。これらの多くは、周辺部やふちの部分がそうした模様で装飾されています。多くの場合において、この種の装飾は制作過程の最後に行われ、それによって1つの絵画作品の制作の全過程が終了します。

イランの細密画の巨匠ファルシュチヤーン画伯の生い立ちと経歴

イランにおける絵画の様式は、非常に多様性に富んでいますが、それは著名な巨匠たちの1人1人が自分たちより前の方式に変化を加えて、新しい様式の基礎を築いたことによります。イランの絵画における卓越した巨匠の1人は、マフムード・ファルシュチヤーン画伯です。彼は1929年、イラン中部にある芸術と文化の都イスファハーンに生まれました。彼の父親は、じゅうたん商人であり、じゅうたんの製作にも精通していました。このため、ファルシュチヤーン画伯が芸術に出会い、彼の高尚なセンスが養われ、彼は就学年齢に達する前にすでに絨毯のデザインを手がけるようになりました。その後、ファルシュチヤーン画伯は次第に、絵を描くようになったのです。

ファルシュチヤーン画伯の父親は、イスファハーンの絨毯関連業の代表者であり、息子の才能に気づいたことから、彼を著名な画家のアトリエに連れて行きました。ファルシュチヤーン画伯は、数人の師匠の教えを受け、イスファハーンの美術学校で学んだ後、美術の勉学を続けるためヨーロッパに渡り、数年間を美術館での西洋美術の研究に費やしました。

ファルシュチヤーン画伯は、イランに帰国してからテヘラン美術総局での仕事を開始し、テヘラン大学美術学部の教授に任命されました。彼は現在、アメリカ・ニュージャージー州に在住しており、定期的にイランを訪れています。

 

ファルシュチヤーン画伯が打ち立てた独自の流派

ファルシュチヤーン画伯は、独自の流派を創設しました。それは、古典的な様式を守ったもので、イランの絵画の範囲をさらに拡大するための新たなテクニックを使用しています。彼は、絵画芸術に新たな命を与え、これをある程度歴史や文学との共存から切り離しました。その理由は、絵画にそれまでにはなかった独立性を持たせることだとされています。彼の新しい創造性が込められた力強い数々の作品は、躍動感や情熱にあふれており、伝統的、現代的な魅力を融合させ、彼独自の複合形式を生み出しています。

ファルシュチヤーン画伯の才能として、この上ない創造性、躍動感にあふれるデザイン、しなやかで力強い線、独特の色使いが挙げられます。彼の作品はどれも、新たに作り出されたものとオリジナルのよさを巧みに組み合わせたものであり、また古典的な文学、コーランなどの影響を受けています。しかし、何といっても大切なのは、この偉大な巨匠の作風が、深く精錬されたイメージの力によるものだということです。

 

ファルシュチヤーン画伯の功績と代表作

テヘラン北部のサアダーバード歴史文化博物館に、ファルシュチヤーン博物館が創設されたことで、イラン文化遺産機構は世界各国の芸術愛好家がこのイランの巨匠の作品を見学できる機会を作りました。この美術館には、ファルシュチヤーン画伯のおよそ70点の作品が展示されています。さらに、イラクの聖地カルバラにおけるアブ・アブドッラーの霊廟の柵や、イラン北東部の聖地マシュハドにある、シーア派8代目イマーム・レザーの霊廟の設計も、ファルシュチヤーン画伯の尽力により行われました。

ファルシュチヤーン画伯の最も重要な作品には、「アーシュラーの日の午後」、「鹿の保護者イマーム・レザー」、「天地創造の5日目」、「モウラヴィーとシャムス」などがあります。彼の最近の作品には、「賞賛」があり、彼自身によれば、この作品はコーラン第62章、アル・ジュムア章「集礼」第1節に述べられている、次のような内容を解釈したものだということです。エ;“天にあり、地にある全てのものは神を称える”

ファルシュチヤーン画伯は、国際舞台へのイラン芸術の紹介にも重要な役割を果たしてきました。彼は、数多くの大学や研究所でも講演を行い、自らの作品に関する多数の著作や論文を発表するとともに、その作品は全世界で名声を博し、イランの絵画の美しさを紹介しています。ファルシュチヤーン画伯はこれまでに、イランのほか国際的な芸術界からも賞賛、表彰されています。彼のそうした受賞歴には、アメリカの芸術祭での金メダル、イタリア芸術勲章、ベルギー国際芸術祭での金メダルなどが挙げられます。

 

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文化芸術最前線 Thu, 31 Dec 2015 21:57:30 +0900
イランの絵画と文学の繁栄(4) http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/60934-イランの絵画と文学の繁栄(4) http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/60934-イランの絵画と文学の繁栄(4)

 

今回、イランの領土における絵画芸術の輝かしい歴史についてお話いたします。当時のイランの領土は、現在よりも広大なもので、当時から残っているイランの文化は、成熟した芸術と過去におけるその側面を示すものでした。

 

ヘラート派について

ヘラート派とは、タブリーズ派とイスファハーン派の重要な前段階の一つとされています。ヘラートの大きな図書館で活動していた画家や書家は、新たな様式の作品をもたらし、それはイランの芸術史において、ヘラート派として知られています。ヘラート派の基礎は、ティムール朝の王シャーロフの時代に遡ります。この様式は、ティムール朝のスルタン・フサイン・バイカラの時代に大きな発展を遂げましたが、その成長は、1507年、ウズベク族の攻撃によって停止してしまいます。

この画派で創造された作品の中でも最も重要なものとしては、バイスングルによるシャーナーメの写本を挙げることができます。この作品は、1430年にシャーロフの息子のバイスングル・ミールザーと、孫のティムール・グールカーニールの注文によって制作されました。この書物にある絵画は、色の組み合わせや構成のバランスの点で、最高の美しさと力強さを持っています。

ヘラート派に見られる快活さと躍動感は、ジャラーイェリー派の絵画における潤いや魂のない作品とは完全に正反対です。また、絵画の上部の端に場面を据えていることも、深みを増しています。緑や青に近いトルコブルーの下地が、ヘラート派の絵画で使われる主な色となっています。

ヘラート派の特徴の一つは、極東の要素が使われていることで、恐らくイランと中国の間の人々の行き来によるものだと考えられています。ヘラートの芸術家たちが、政治団体と共に北京を行き来していたのは有名な話です。その中に、ギヤーソッディーン・バイスングルという画家がいたということです。

 

キャマーロッディーン・ベフザードについて

キャマーロッディーン・ベフザードは、ヘラート派の巨匠で、この芸術を広げ、彼以前には使われていなかった手法を生み出しました。キャマーロッディーン・ベフザード・へラヴィーは、1455年、現在のアフガニスタンのヘラートの町に生まれ、ヘラートの図書館で教育を受けた後、すぐに絵画、肖像画の高い技術を習得しました。

色使いと絵の輝きは、ベフザードの色に対する深い思い入れを物語っています。こうした傾向から、ベフザードは青や緑といった寒色を好んでいましたが、それと共にオレンジなどの暖色を使うことで、バランスを保とうとしていたことが分かります。

絵画のそれぞれの部分が全体と調和していることは、驚きに値します。花をつけた木の枝、装飾のついたじゅうたんやタイルは、ベフザードの繊細さと情熱を表しています。ベフザードの名声により、何世紀もの間、多くの人が彼の多くの作品を模倣し、彼の名前を作品に記してきました。そのため、彼の本物の絵を見分けることが難しいほどです。しかし、彼の作品をそれ以前のものよりも優れたものとしているのは、何よりも彼の現実的な見方だと言えます。このような特徴は、特に、宮廷のためだけに描かれたのではない、一般の人々の普通の生活を描いた絵画に見られます。畑で馬が仔馬に乳をやっている姿、他人の領分を侵す人を罰する姿、食べ物を持ってくる召使い、耕作地にいる農民などがそれにあたります。

ベフザードの作品に見られる別の特徴に、人間の顔が人形のような、それまでの絵画の単調さとはかけ離れていること、それどころか、それぞれの顔がその人の性質を示しており、そこに生活や躍動感が見られることです。休んでいる人々も、自然な姿、状態で描かれています。

ベフザードの名前で書籍などに見られる数多くの絵画については、専門家の間で意見が大きく異なっています。しかしいずれにせよ、これらの多くは、たとえベフザード本人のものではないにしても、彼の画派に関連するものです。ベフザードの芸術がもたらした最も重要な変化は、絵画に見られる人物への注目です。ベフザードは、一人の人物の肖像画を描いたイランで最初の画家です。彼はその作品の中で、書物からは独立した絵画を生み出しました。

ベフザードの影響力は、何よりも、彼の門下生たちの作品の中に見ることができます。門下生の中には、その師匠の技術のレベルに多かれ少なかれ到達した人もいました。サファヴィー朝時代は、ミニアチュール様式が再び変化を遂げましたが、ベフザードが亡くなってから半世紀がたっても、彼の影響力は画家たちの作品の中に見られていました。一部の画家の移住により、ベフザードの絵画の様式は、インドにまで広がりました。

 

サファヴィー朝時代のイランの絵画

サファヴィー朝時代、イランの芸術、特に絵画の中心地はタブリーズに移りました。芸術家の中にはガズヴィーンに留まった人もおり、またイスファハーンも、イラン芸術の中心地の一つでした。この時期、絵画は少しずつ、以前の様式から離れ、新しい道を歩もうとしていました。サファヴィー朝時代の画家たちは、新しい様式を生み出しました。それを打ち立てたのはレザー・アッバースィーで、絵画の手法に多くの変化をもたらしました。この時期のデザインは、イランの画家たちのデザインの中でも最も美しいもので、彼らの趣向を示しています。この時期に描かれた絵画はどれも、書物を装飾するためだけに描かれたのではありません。サファヴィー朝様式は、ヘラート派、特にモンゴル的な様式よりも穏やかで、優れたものとなっています。

サファヴィー朝時代の画家たちの絵画には、彼らの技術が明らかに見て取れます。その最良の例は、イスファハーンのチェヘルソトゥーンとアーリーガープー宮殿の建物に見られるものです。サファヴィー派の絵画のテーマは、この時代の華やかさと美しさです。それらの絵画の題材は、多くが皇帝、貴族、美しい宮殿、美しい景色や森林となっています。これらの絵画の中で、人間は華やかな衣服を身にまとった美しい姿で描かれています。サファヴィー朝時代の絵画の特徴は、画家たちのより多くの自由、技巧、注意深さが好ましい結果を生み出したことを物語っています。

サファヴィー朝時代の芸術家たちは、多くが全体的な原則にのっとり、不必要な細かい要素を省いています。単純な線、感情の表現、様々なテーマの混在が、サファヴィー派の絵画の特徴です。この時代の末期には、細かい色使いに独創性が生まれ、一部の絵画の中には、ヨーロッパの様式の出現のしるしを見ることができます。

 

ガージャール朝時代のガフヴェハーネ派

ガージャール朝時代の絵画は、ヨーロッパの古典派とサファヴィー朝時代の細密画の技巧が組み合わさったものとなっています。この時代、キャマーロルモルクというイランの著名な画家が、ヨーロッパの古典派をイランに広めました。さらに、この時代には、ガフヴェハーネとして知られる様式が生まれました。この種の絵画は、イランの芸術史における新たな現象です。ガフヴェハーネ派は、大衆に好まれ、歴史的なテーマや伝説を題材としています。その多くが戦争の場面、文学者や国民的な英雄の絵で、中には宗教の偉人の人生や宗教的な詩を描いたものもあります。

ガフヴェハーネとはもともと、イランの昔ながらの喫茶店を意味し、ガージャール朝時代にだんだんと一般の人々の間に広まり、そこでは宗教物語や英雄物語が語られていました。画家たちも、ガフヴェハーネの壁にそれらの物語の絵を描いていました。かつては、皇帝や貴族が画家たちを支えていましたが、この頃になると、芸術家は一般の人々の要請を受けてそうした絵画を壁に描いていました。

多くのガフヴェハーネでは、人々の要請によって壁に絵画が描かれ、それが保存されていました。その後、この種の絵画に大きな変化が起こり、壁の表面ではなく幕の上に描かれ、片付けたり、再びかけたりすることができるようになりました。こうした絵画の最も美しい例は、テヘランの一部の博物館や国内外の博物館に保管されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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文化芸術最前線 Thu, 24 Dec 2015 20:48:12 +0900
イランの絵画と文学の繁栄(3) http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/60747-イランの絵画と文学の繁栄(3) http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/60747-イランの絵画と文学の繁栄(3)


今回も、イランにおける絵画の歴史についてお話することにいたしましょう。

イスラム以後の絵画は、書物の挿絵などの形で広まり、ペルシャ文学と強く結びついていきました。各時代の文学作品は、それぞれの特徴や構造に基づいて、特定の流派に分類されます。イランの絵画の世界にも様々な流派が存在しています。
原則的に、イランの絵画における流派の名づけの仕方は、それぞれの時代を支配していた中央政権に基づくものです。即ち、富や権力が集まり、国の統治の中心とされていたところには全て、様々な場所から芸術家たちが自分の意思で、あるいは支配者の命令によりやむなく、といった形で集まっていました。一定の時期が過ぎてから、これらの人々は絵画の分野での特別な形式の基盤を打ちたて、その後はその町や支配王朝の名前で名声を博したのです。
イランの絵画における流派について評価するにはまず、イラン人の画家ドゥースト・モハンマドの報告からはじめる必要があります。彼は、1544年にサファヴィー朝の王子イブラーヒーム・ミールザーのために作品集を編集し、その序文を執筆しました。この作品集は今日、トルコのイスタンブールにあるトプカプ宮殿図書館の付属博物館に収蔵されています。ドゥースト・モハンマドは、サファヴィー朝のタフマースブ王の時代にしばらくの間、宮殿の専属の画家を務め、イランの絵画の伝統的な画家の1人でした。また、絵画芸術を預言者ダニエルに関係付け、サーサーン朝時代のシャープール王やマーニーについて述べた後、14世紀の絵画について検討しています。

ドゥースト・モハンマドは、14世紀から15世紀のジャライル朝の王たちによる芸術家の保護について述べており、彼らが絵画を愛好していたとしています。この時代、ジャライル朝の首都は、現在のイラクのバグダッドでした。一方で、イランの絵画が急速に発展したのは、天才画家アフマド・ムーサーの存在によります。インド起源の寓話「ケリレとデムネ」における彼の挿絵は、他のイランの絵画や、その歴史においても、特別な輝きと複雑さを誇っています。その後のイランの画家たちが、アフマド・ムーサーに特に注目していることから、その後の時代において彼の主要な作品が完全な美しさを持って再現されていることが分かります。
イランの画家ドゥースト・モハンマドや、そのほかの歴史家の記述によりますと、イランの絵画の最も重要な流派は、アッバースィー派とも呼ばれるバグダッド派、第1タブリーズ派、第1シーラーズ派、ヘラート派、ボハーラー派、ガズヴィーン派、イスファハーン派とも呼ばれる第2タブリーズ派などがあります。これらに加えて、セルジューギー派、ジャライル派、そしてガージャール派もイランの絵画における流派とされています。

バグダッド派は、アッバースィー派とも呼ばれ、イランの絵画の重要な流派の1つです。8世紀にアッバース朝が樹立したことにより、バグダッドはイスラム世界における本の挿絵の中心地として知られ、ここでは科学書や技術書における挿絵の挿入が盛んになりました。この流派の絵画は、地味でありながらも美しいものです。しかも、特に衣服のひだの描き方が注目を集めており、鮮やかなざくろのような赤い色調のデザイン、天使の翼、動物の再現といった要素は、サーサーン朝の芸術に負うところが大きくなっています。これらの絵画では、自然の象徴として樹木の枝や葉が使われています。この絵画のほかの特徴として、背景が色をつけないまま、あるいは単純な色彩の配合がなされていることが挙げられます。
バグダッド派の絵画には、セム系の人々の顔が描かれています。この流派の絵画には、イスラム以前の芸術もある程度見られますが、それはごく表面的なものです。重要なポイントは、当時イランの絵画がアジアのイスラム圏全体はもとより、アフリカやヨーロッパにまで広がっていたということです。
バグダッド派の様式による挿絵の入った書物としては、『ケリレとディムネ』を挙げることが出来ます。この書物の挿絵は、普通のサイズよりもかなり大きく、また限られた数の色しか使われていません。文字による当時の書物は伝説や物語が多く、動物や草花などの挿絵で装飾されていました。こうした書物で最も古いものは、アラビア語による動物の専門書です。この書物には、各種の動物の特徴について説明されており、自然史と伝説と混合しています。この書物に見られる多くの挿絵は、イランの絵画を理解する上で非常に重要なものです。

11世紀以降は、イランの絵画にセルジューギー形式というスタイルが出現しました。この形式は、絵画における初の本格的なイランの流派です。視覚的な点から、この流派においてもアッバースィー派のようにシンプルなものでした。しかし、この流派とバグダッド派との主な違いは、サーサーン朝やイスラム以前の時代や、極東地域の特徴が見られることです。多くの肖像画においては、頭部に光の輪がありますが、これは人物を背景と区別するために使われています。また、頭部が体より大きく描かれ、腕には腕輪が見られます。

イスラム時代の始まりとともに、貴金属の使用が禁じられたことから、陶器の製造が盛んになり、陶器の絵柄はこの時代の絵画の特徴をより強く反映しています。この時代には、イランの著名な詩人ネザーミー・ギャンジャヴィーがハムセと呼ばれる五部作を著しました。この作品は、その後の時代のイランの絵画の模範となり、名声を博しています。この時代の書物への挿絵の挿入は、バグダッド派から離れてより多くのイラン的な特徴を盛り込む形で行われました。この時代以降の書物は、多数残されています。セルジューク朝時代に、歴史的、社会的な情報を記述したモハンマド・ブン・アリー・ラーヴァンディーは、当時の政府が芸術家を経済的に支援したことから、彼らが安心して創作活動に取り組めたことを指摘しています。
セルジューク朝時代には、イランの文化的なスタイルと融合した絵画が数多く存在します。こうしたイラン文化との融合は、その後の時代にも多かれ少なかれ見られます。スコットランドのオリエント学者ハミルトンは、この時代のイランの絵画について次のように述べています。「イランとイラク、トルコ系の民族が流入したが、セルジューク朝の人々はそのさきがけであり、彼らのオリジナルの特性を持った慣習や哲学、文学は出現しなかった」 このことから、セルジューク朝の人々は自らの文化の特徴や文化的な要素の一部を提示したものの、彼らは多くの場合、イランを模倣したということです。このように、時にはイランの絵画の様式との融合が行われましたが、それらは一時的な影響しかなく、それらを本格的なものと見なすことはできません。
こうした融合の実例は、モンゴル軍がイランを襲撃した後の時代のイランの絵画に見られます。モンゴル人は確かに、イランの文化や芸術の影響のもとにあり、芸術家たちを保護・奨励していました。しかし最終的に、モンゴル人がイランの芸術や文化から得たものはそれほど多くはなく、彼らが芸術作品における強い存在感を示すことはなかったのです。この時代の芸術家たちは、技術のみならず、イラン的なテーマにも注目しており、彼らの作品の多くは、イランの英雄叙事詩人フェルドゥスィーの『王書』のようなイランの文学作品の内容を描いています。彼らは、様々なテーマの中でも、文学作品の内容を絵画に表すことに関心を持っており、書物を多数の挿絵により装飾していました。

もっとも、この時代にはイランの絵画に、竜などといった中国風の新しい要素が入ってきたことを忘れてはなりません。イランの歴史家ラシードウッディーンは、イラン北西部タブリーズ近郊にあったイルハン朝の宮殿において、ラシーディーエという名称のアトリエを創設しました。彼はここに、多数の芸術家や作家を集め、彼らを歴史全書というタイトルの歴史的、哲学的な作品に挿絵をつける作業に従事させたのです。これらの挿絵の一部のテーマは、宗教的な内容で、そのほかの一部の挿絵はモンゴルの歴史をテーマとしています。
このアトリエで制作された作品が、中国の絵画に極めてよく似ていることから、このアトリエには中国人の画家も存在していた可能性が考えられます。このアトリエで制作された作品は、特に山を題材とした背景が使われ、中国の唐の時代の絵画を思い起こさせます。ですが、人物の描かれ方は、完全にイラン式です。しかし、このラシーディーエも、創設者のラシードウッディーンが死去した後は閉鎖され、イランの絵画はまた新たな段階に入ることになりました。

 

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文化芸術最前線 Thu, 17 Dec 2015 21:14:12 +0900
イランの絵画と文学の繁栄(2) http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/60350-イランの絵画と文学の繁栄(2) http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/イスラム四方山話/item/60350-イランの絵画と文学の繁栄(2)

 

イランの絵画芸術は、実際にはイランのイスラム期の様々な時代の作品を含んでいます。これらの作品の多くは、文学や科学・技術、歴史などの書物の他、一部の宗教書の挿絵に使用されています。それではまず、古代のイランにおける絵画の歴史についてお話することにいたしましょう。

 

古代イランとイスラム以前の壁画

イランの絵画の歴史は、他の国と同様に人類が穴居生活をしていた時代に遡ります。イラン西部・ロレスターン州にあるドゥーシェの壁画は、今から8000年以上前のものとされ、原始的な手段により110に上る絵柄が描かれています。この洞窟の存在は、紀元前だった当時に、イランに既に壁画が存在していたことを示しています。

さらに、イランの壁画として残っているものには、紀元前3世紀ごろのパルティア朝時代と、その後のサーサーン朝時代の芸術家の芸術性の高さを示しています。イラン中部カーシャーン近郊のスィアルクの丘で発見された壁画と、陶器の表面に図柄が施されたイラン西部のドゥーシェの洞窟は、それらの地域の人々が絵画という芸術に親しみを持っていたことを証明するものです。

さらに、現在のイラクにあたるチグリス・ユーフラテス川の北部の地域でも壁画が描かれており、これも数千年前のイラン人の祖先が絵画に精通していたことを伺わせます。これらの壁画の1つは、狩猟の場面を描いており、動物や動物に乗った人間の様子、そしてその作風は現代の絵画と非常に似ています。

また、紀元前6世紀ごろのアケメネス朝時代の絵画では、他のどのような図柄よりも肖像画が優先されました。この時代からは、色彩の美しさや均整が非常に目を引くようになります。紀元3世紀のイランの著名な画家の1人であるマーニーは、アルジャングというタイトルの書物において、驚くべき作品の数々を収集しています。

既にお話したように、イランの絵画の歴史は、イスラムが出現する前の時代に遡ります。ですが、イラン人が9世紀に当時のイスラム帝国であるアッバース朝の官僚として登用された時代には、イランの絵画は一定期間の停滞期を経て、再び盛んになりました。イスラム以前の絵画は神秘主義やイスラム哲学と融合し、このことから宗教的な側面が出現することが促進されたのです。アッバース朝時代には、貴重な絵画作品が制作されましたが、残念ながらそれらの多くは、13世紀から14世紀にかけてのモンゴル軍の襲撃により失われています。

イスラム以降のイランの絵画の特徴

イスラム以降は、富と権力が集中し、政治の本拠地とされるところにはどこでも、各地から芸術家たちが集まり、最高の傑作を生み出しました。王立図書館も、印刷・出版の中心地として、画家や書道家、製本や装丁の職人たちの集まる場となっていたのです。当時は、様々な芸術の流派がともに価値ある書物を製造することが可能となっており、これにより王立図書館は隆盛を極めました。普通、芸術家たちの中でも技術面と人格面の双方で優れた人物が図書館の監督者に選ばれ、ほかの芸術家の活動を監督していたのです。

イランの絵画の優美な世界は、驚きと秘密に溢れています。絵画は、表面的な特徴のみでは、その美しさと完璧さを見極めることはできず、それらの作品をより深く掘り下げて研究することにより、芸術家たちの精神的な思想や空想の世界をある程度理解できます。イランの絵画は、表面的、物質的な側面に加えて、精神的な世界をも有しています。

一方で、絵画の美しさは、イランの詩や文学作品、神秘主義者の思想を知ることなく理解することはできません。画家は、何かを描くために、物質的な世界よりも精神的な世界のほうに注目します。たとえば、1頭の馬を描くのに物質的な世界に存在する馬ではなく、物質を超越した世界にある存在物に注目するのです。このため、イラン人の画家たちは、光に溢れる景色を描いており、絵画の中には影や遠近法は存在しません。

おそらく、一部の人々は、イラン人の画家には遠近法を使用して絵画を描く能力がないために、そうしたアプローチに到達したと考えるかもしれません。しかし、これは完全な誤りです。イラン人の画家は基本的に、そのようなテクニックは必要がないと考えているのです。美学の専門家の多くは、この点をイラン人の画家の大きな長所とみなし、彼らの創造性を称えています。

芸術史を振り返ってみると、20世紀の西洋の社会では、多くの評論家や芸術家がまさにこの結論に達しており、芸術における様々なスタイルを生み出しました。しかし、実際にはイラン人の画家たちは数百年も前から、美や芸術性の極限に達したこのような見解を自らの作品に反映させていたのです。

書物の装飾と絵画においては、線が非常に重要であり、影を目立たなくして、時には全くなくすこともできます。絵画における筆のタッチは書道と非常によく似ており、それはそのいずれも困難な鍛錬と注意力を必要としているからです。絵画とデザインを区別する要素は、線の引き方であり、絵画では線に強弱を伴います。

イランの絵画では、実際の人間の顔面の均整とは非常に異なる顔が見られます。両目の間の距離は実際より短く、耳の位置はかなり高めです。また唐草模様のラインの中に顔が存在しており、少々注意してみれば、そのほかにも多くの事例が理解できます。

絵画では、顔の構成要素の1つ1つが特別な意味を持っています。画家たちは、昔から美しい眉毛が互いにつながった状態を好み、それを蝶に例えてきました。人間の瞳は、文学では水仙の花に例えられ、アーモンドのように細長く描かれています。また、唇も小さく描かれているとともに、多くの場合は閉ざされています。しかし、重要なことは、こうした描き方が愛の文学から起こっているということです。イランの絵画の発生と完成において、ペルシャ語詩人の役割を決して小さく見たり、また無視することはできません。

数百年に及ぶ時間の経過とともに、イランの絵画は大きな変貌を遂げ、多様な特徴を持つ流派が生まれました。その一部としては、バグダード派、シーラーズ派、ヘラート派、タブリーズ派、ガズヴィーン派、イスファハーン派などを挙げることができます。

 

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文化芸術最前線 Thu, 03 Dec 2015 22:12:28 +0900