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2015/07/12(日曜) 17:45

ラマザーン月と共に(15)

ラマザーン月と共に(15)

ある男性が、理髪店に行ったとき、興味深いやりとりが行われました。彼らはさまざまな事柄について話をしていました。神について話すことになったとき、床屋は、「私は神がいるなんて信じられませんよ」と語りました。これを聞いたその男性は、「なぜ信じられないのですか」と尋ねました。


床屋は、「通りに出て、なぜ神がいないのか見てみれば十分ですよ。もし神がいるのなら、これほど多くの人が病気になるでしょうか。親のいない子供が出てくるでしょうか?もし神がいるのなら、痛みや苦しみは存在すべきではありません。すべてのものが存在することを許す、慈愛なる神を想像することができないのです。」と答えました。
この男性は、少し考えたものの、返答しませんでした。それは彼が議論するのを望んでいなかったからです。
床屋が髪を切り終えた後、この男性は理髪店を後にしました。
彼が店を出たとき、通りで、不潔でボサボサの長い髪と、伸ばし放題のひげを持った、汚い格好をした男性を見かけました。
男性は再び理髪店に入り、床屋に、「あれが何かわかるか、床屋はいない、と私は思っている」と語りました。
床屋は驚いて、「なぜそのようなことをいうのでしょう?私はここにいます。私は床屋です。私は今さっきあなたの髪を切ったではありませんか」といいました。
それに対してこの男性は、「いいや、床屋はいない。もしいたのなら、あの外にいるような、髪が長くて不潔で、ひげを整えていない男が見つかるはずはない」と答えました。
床屋はそれに対して、「床屋はいます。彼らが私たちの所に来ないのが問題なのです」といいました。
男性は、「まさにそうだ。ポイントはまさにそこに存在する。神も存在する。ただ人々が彼について省みず、彼を求めないだけなのだ。まさにそのために、現世にはあらゆる痛みや苦しみがある」
この数年間、ラマザーン月は夏の暑い時期に当たっています。このため、この期間の断食は、断食する時間が長い、この大変な暑さによりのどが渇くなど、いくつかの理由で耐え難いものとなっています。一部のイスラム都市では、気温が摂氏45度以上に上昇しますが、これらのいずれの理由も、イスラム教徒が断食を行わない口実にはなりません。
断食を行い、この暑さの中でかまどの傍らで仕事をすることは、大変な忍耐を必要とします。へダーヤトッラーは29歳のパン職人です。パンをかまどの中に入れるとき、こめかみに汗が流れます。彼は、「断食は、かまどの炎の熱気で顔がほてり、焼けるので、大変困難となるが、この困難な生活における断食の恩恵も、大きなものだ」と語っています。
ムハンマドは36歳です。、摂氏1500度にもなる炉のそばで仕事をしています。仕事を終えた時、工房のそばに座り、安全帽をとると、仕事場の暑さにより、肌が黒くなっているのがわかりました。ムハンマドは、「炉のそばで大変熱い中にいるとき、本当に水が飲みたくてたまらなくなる。こうした中で、唯一断食を続けられるのは、この困難の中で、神が自分を見ているということを感じているためだ。このため、大変つらいが、神の満足のために水を飲まずにいられるのだ」と語っています。
鉄骨をくみ上げる段階の建設作業の中、アサド教授という人物が安全靴と手袋を着用して、熱くなった鉄骨の上を歩き、溶接作業を行っています。炎天下の中、アサド教授の仕事場の周辺は、鉄骨の熱によって、頭が混乱するほど暑くなっています。しかし自身はこの暑さを気に留めず、鉄骨の上にすわり、溶接作業を行っています。彼はこの暑さの中、大変な仕事をこなしながら、断食を行っています。彼は次のように語っています。「この状況下でこの暑さに耐えることは、断食をする人にとってはつらいが、不可能ではない。この暑さの中で断食に耐えることは、望めば実現する、ということを理解するために、神が僕に与えた慈愛なのだ」
ラマザーン月におけるあらゆる努力や、この暑い中での断食が行われている中で、預言者ムハンマドのハディース・伝承では、「暑い中での断食は聖なる戦いである」と述べられています。
イランの哲学教授、ディーナーニー氏はこれに関して、次のように語っています。「夏の断食は簡単なことではない。だがこの苦しみに耐えることは、人間の喜びや完成の要因となる。つまり、ラマザーン月における断食や礼拝は、表面的には苦痛だが、この苦痛を耐えることで、幸福に近づく」
預言者ムハンマドは、「ラマザーン月に親のいない子供たちを支援したものは誰でも、神は最後の審判でその人を尊重する」と述べています。
親のいない子供に同情を寄せ、慈しむことは、イスラムの偉大な訓戒のひとつで、大変な努力を行うべき信徒の義務です。なぜなら、彼らは、明らかによりどころや保護者を持っておらず、神のみが彼らのよりどころとなっているからです。神はこのような子供の権利を大変に尊重し、彼らを慈しむことを強調しています。イスラム社会にとっての模範的な行動のひとつは、シーア派初代イマーム・アリーのこのような子供への対応です。イマーム・アリーは彼らを気にかけ、支援することについて語っており、「神よ、親のいない子供の腹を満たし、彼らを空腹にすることのないよう、彼らの権利を弱めないよう」と述べています。
イマーム・アリーは道の途中、貧しい女性の家の様子に気づきました。そこでは子供たちが空腹のために泣いていました。彼らの母親は子供たちを遊ばせ、その後子供たちを寝かしつけるために、なべに水を満たし、それを火にかけました。イマーム・アリーはそれを見て、奴隷のガンバルとともに急いで自宅に戻り、ナツメヤシと小麦の入った袋、それと同じぐらいの米袋、油を担いで、急いでこの女性の家に戻りました。その家に着き、家に入る許可を得て、油と米をなべの中に入れ、おいしい食事を作りました。子供たちをすぐに起こし、満腹になるまで食べさせました。その後、子供たちを楽しませるために、四つんばいになって彼らを背中に乗せて動き回りました。しばらくの間、子供たちを楽しませた後、彼らを寝かしつけるとイマーム・アリーはその家を出ました。奴隷のガンバルは、「わが師よ、今日は2つのあなたの行動を目にしました。ひとつの理由は知っていますが、もうひとつの理由はわかりません。まず、食料を入れた袋を自分で肩に担ぎ、私にそれを行わせませんでした。確かにそれはすばらしい報奨のためでしょうが、四つんばいになって子供たちを背中に乗せた理由が私にはよくわかりません」
イマームアリーは、これに対して、次のように答えました。「父親のいないあの子供たちが空腹で泣いており、その顔が汚れているのを見て、私はこう思った。私がこの家を出るときには、あの子供たちを満腹にさせ、またその埃にまみれた顔から父親のいない寂しさをぬぐってしまおうと。

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