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2015/04/09(木曜) 12:40

イブラヒーム章(3)

イブラヒーム章(3)

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
今回も前回に引き続き、コーラン第14章イブラヒーム章アブラハムを見ていくことにいたしましょう。

 

イブラヒーム章の第21節には次のようにあります。
「[最後の審判では]皆が神の前に立つ。そのとき、弱い人たちは高慢で反抗的な人たちに言う。『私たちは[地上で]あなたたちに従いました。今、あなたたちは神の責め苦を一部でも、私たちから取り除くことはできますか?』 彼らは言う。『もし神が私たちを導いてくれていたら、私たちもあなたたちを導いていただろう。[だが今となっては]慌てようが、耐え忍ぼうが、私たちにとって変わりはなく、救いの道は残されていない』」

最後の審判の日、圧制者や不信心者たちは、神の御前に集められます。そのとき、愚かな人々は、自分たちの迷いの元凶となった高慢な人々に対し、このように言います。「私たちはあなたたちに従ったために、このような災難や苦しみに見舞われています。あなたたちも私たちの責め苦の一部を受け入れてください。そうすれば、私たちの苦しみが軽減されるでしょう」 彼らは言います。「もし神が私たちを、このような不信心から救済へと導いてくださっていれば、私たちも、あなたたちを導いていたでしょう」 この節は続けて、弱い人々にこのように語っています。「無意味に悲しんだり、嘆いたりするのはやめなさい。救済の道は残されていないのだから」

コーランの節によれば、高慢な人々は、望むと望まざるとに拘わらず、自分に従った人々の罪の責任を負います。なぜなら、彼らこそが、逸脱や迷いの原因になったからです。だからといって、彼らに従った人々の懲罰や責任が軽減されることはありません。この節から、目を閉じ、耳をふさぎ、考え方が定まらずに自らの手綱をいろいろな人に預けてしまう人々は、誤った道を歩んでいます。そのため明らかに、彼らとその信者たちは、同じ運命をたどることになるのです。

この後の節は、悪魔の策略に警戒するよう、人々に警告しています。善良な僕と悪い僕の清算が終わり、それぞれが絶対的な運命へと進んだ後、悪魔は自分たちの信者に向かってこう言います。「神はあなたたちに真理の約束をした。私もあなたたちに約束をしたが、その後で約束を反故にした」 このように、悪魔は非難の矛先を、悪魔を信じた哀れな人々へと向け、それからこのように続けます。「私は、あなたたちのことを支配していたわけではない。ただあなたたちを罪へと導いたに過ぎない。あなたたちも自分の意志でそれを受け入れたのだから、私を非難すべきではない。むしろ自分自身を非難すべきだ」 この節は、人間を欺くための悪魔の努力に触れ、このように警告してます。「悪魔の誘惑が、人間から自由や権限を奪うことはない。悪魔はただ、導くだけである。人間が自分の意志によって、悪魔の導きを受け入れてしまうのだ」 人間は、誤った行いを続けたりなど、あらかじめ土台がある場合には、悪魔の誘惑に簡単に屈してしまう可能性があります。

次の節は、信仰と善い行いによって救済された人々の運命に触れています。彼らは、木の下を小川が流れる天国の楽園に入り、神の赦しによって、その中に永遠に留まります。それに続く節は、真理と偽り、信仰と不信心、清らかさと穢れの別のたとえを描いています。

イブラヒーム章の第24節と25節は、清らかさを、清らかな木々になぞらえ、次のように語っています。
「汝は、神がどのようなたとえをあげたかを見なかったのか? 清らかな言葉は、良質な木のようなものであり、それは地面にしっかりと根を下ろし、その枝は天に向かって伸びている。その木は、神の赦しを得て、常に果実を実らせる。神は人々のためにたとえを挙げている。おそらく彼らは考えるであろう」

神が、清らかな、という言葉を、清らかな木々になぞらええているのは、成長を伴うからです。この木は、あらゆる点で清らかです。果実も花も、そこに降り注ぐそよ風ですら、清らかなものです。この木は根や枝を持っており、その根は非常にしっかりと安定していて、強い風が吹いてもびくともしません。この清らかな木の枝は、天にあります。正しく考えれば、こうした特徴や恩恵を、唯一神信仰という言葉や、唯一の神を信じる善良な人間の中に見ることができるでしょう。これらは皆、しっかりとした根と天へとのびる枝、多くの実を有しています。誰でも、その人の存在の枝に手を伸ばせば、いつでも、おいしい果実が取れるでしょう。なぜなら、唯一神の信仰という木は、常に、果実を実らせるからです。信仰のある偉人たち、**

こうした人々の対極には、穢れた性質を持つ人々がいます。イブラヒーム章の第26節には次のようにあります。エ「卑しい言葉は、腐った木のようである。それは大地から根が抜けて、全く不安定である」

悪意ある、穢れた、という言葉は、信条や言葉、穢れた人間、迷わせるような計画など、穢れたあらゆるものを含みます。明らかに、根が抜けた木が育つことはなく、花や実もつけず、影もなければ美しくもなく、安定してもいません。単なる乾いた、何の意味もない木の棒のような存在になってしまうでしょう。

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