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2015/05/31(日曜) 21:06

イランの社会派映画の歴史(1)

イランの社会派映画の歴史(1)

今週から、イランの社会派映画について、その歴史と特徴、重要な作品をご紹介することにいたしましょう。

 

明らかなことは、社会の各層の志向に従って、様々な映画のジャンルの存在が必須であるということですが、統計が示しているように、大多数の人が、社会派のドラマに多くの関心を寄せています。一本の映画の中で、ある出来事が様々な事件やその裏に隠された真実を織り交ぜながら展開し、その後、すべてが明らかになるドラマは、娯楽として観客を大いに楽しませるものです。

社会派の映画は、一部の映画のジャンルと異なり、その成功のためには、通常、社会の現状を反映させる必要があります。この映画は、社会、つまり一般の人々を相手にしています。児童・青少年映画の観客は子供たち、また、冒険映画やSF映画の観客は特定の層ですが、社会派の映画はすべての社会の階層を考慮して作らざるを得ません。社会派の映画制作の領域は社会全体です。制作者が社会に近づけば近づくほど、さらに深い恩恵がもたらされるのです。

社会派映画は、現在も前進することを余儀なくされています。このため、人生の出来事を観客に正しく語り、彼らをこの物語の中に引き込まなくてはなりません。一方で、社会派映画はすぐに廃れてしまうような期間限定の映画ではありません。社会派映画のテーマが正しく伝えられ、観客の記憶に残るようなものであれば、時代を経ても、また別の国の観客であっても、魅了することができるのです。

社会派映画は、正しい形で、社会の矛盾をつくべきでしょう。これらの矛盾を相対させたり、必然的な出来事を創造したりすることが、社会派映画の制作者が第一にやるべきことでしょう。明らかに、社会派映画の中では、社会的な秩序が守られるべきであり、道徳性や人間性が傷つけられるような形で、社会問題が批判されるべきではないでしょう。このため、社会派の作品は、観客を混乱させるべきではなく、社会的な秩序が乱されるようなことがあっても、その作品は、映画の健全性を維持すべきなのです。例えば、「裏切り」、「法律違反」といった問題は慎重に扱われるべきであり、物語を語る過程で、映画の登場人物が法律や道徳に違反するような行動をとれば、その原則に疑問を生じさせてしまうことになりかねません。

社会派映画は、複雑で曖昧な映画ではなく、社会の出来事をシンプルに伝えるものです。社会派映画は、人間に関連するもので、登場人物の人物像に加えて、法的な側面にも触れており、このため、心理学に加えて社会学も必要とされています。この映画の制作者は、社会に関わざるを得ず、端に座って、物語を語ることはできません。映画の物語は、社会的な関係の中から生じ、実際に目に見えるものとの唯一の違いは、ある現象を芸術的な視点から見て物語っている、ということです。

社会的な問題は時に、他の分野の傍らで描かれ、映画の中での社会問題の提起は、制作者を民族学や文化、あるいは各文化の一面に導いており、大きな社会の中の小さな問題の検討につながっています。こうした中、社会派の映画は、どれほど時代の社会的なアイデンティティーとなりえるのでしょうか?

このように、社会派映画の効果の一つに、観客の思想や文化の向上があります。この向上は、情報やメッセージを伝える中だけでなく、映画の構造的な特徴の中でも見られるべきです。なぜなら映画産業は常に発展しており、制作者もまた映画の戦術を用いることで、常に新たな視覚的な作品を生み出しているからです。さて、社会派映画は独自の特徴を持つことで、観客の人生と寄り添っているのでしょうか?また、観客の人生の側面を成長させると共に、彼らの芸術的、文化的理解を深めているのでしょうか?

社会派映画は、20世紀にどのようにして生まれたのでしょうか。ネオレアリズモは、イタリアで生まれた、第2次世界大戦後の映画の重要な動きの一つです。ネオレアリズモは、実際、1930年のフランスの詩的リアリズムをモデルにしたもので、この信奉者はたいていマルクス主義に傾倒していました。ネオレアリズモの映画監督たちは、その作品をスタジオを離れ、屋外の町の空間で撮影し、プロの役者を使用することなく、社会の現実との直接の関係を求めていました。このことから、この作品の多くで、失業、不運、貧困、不正、不公正といったものが見られます。ネオレアリズモの初期の作品には、ルキノ・ビスコンティ監督の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』などを挙げることができます。

ネオレアリズモは、世界中の賞賛を浴びましたが、政府やその政策に批判的だったことから、イタリアで多くの衝突を引き起こしました。こうして1949年には、イタリアや政府を批判する映画の製作を禁じる法案が可決されました。

過去に遡り、20世紀の映画制作を振り返ってみると、イランの映画は初め、社会的な枠組みの中にあり、無声映画から始まっていたことがわかります。『アービーとラービー』、『映画俳優・ハージーアーガー』、『ロルの娘』といった作品は、おそらく特定の階層に向けて上映された映画ですが、国民が文化や文学、芸術に親しみ、この分野で長い経歴を持っていた国での映画の上映の始まりを意味しました。

パフラヴィー王政時代、映画の制作者たちは多くが、体制のプロパガンダに掛かりきりとなっており、西側の文化とその考え方を広めることで、人々を彼らが考えていた方向に誘導しようとしました。彼らは、非道徳的な卑しい話題を取り上げ、自らの懐を肥やし、文化関係の責任者に注目されようとしていました。これらの作品の多くの問題点は、当時の人々の生活から離れ、一部の外国作品を模倣にしたものであったということで、そのテーマは、イランの当時の人々の生活とは全く相容れませんでした。1955年当時の批評家が、ある映画雑誌の中で、次のような記事を掲載しました。
「我々の映画は、お決まりの型にはまっており、社会の慣習や特性に注目を寄せていないこともまた問題であり、これが他の映画の病気のように伝染しないことが望まれる。基本的に、殺人のシーンや過剰な演出はイランの映画に相容れない」

イランでは、初期の無声映画でも、後のトーキー映画でも多かれ少なかれ社会的なテーマを有していました。長年にわたり、イラン映画は多くの浮き沈みを経験しましたが、作品の社会的な側面は、少なくとも制作の主要な部分において維持されていました。イスラム革命前に制作された人気映画のリストを参照して見ると、その中に、時代や社会を反映した優れた作品がいくつか見られます。それらは社会の様々な階層と関係を築き、多くの成功を手にしました。この中で、新たな映画監督が進出し、その中には後に国内で有名な制作者となる人々がおり、そのうちの数名は今も映画制作に携わっています。

 

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