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2015/06/09(火曜) 22:00

他人との交流

他人との交流

人間は社会的な存在です。つまり、親切や相互の理解、尊重により、社会的な生活をおこなっています。このため、人間は社会的な生活の中で、人々に期待されている事柄を行い、人々に対して、期待されているように振舞わなければなりません。もし正しい事柄を守り、約束を守ることを好み、人々に対してよい行いを期待するのであれば、自身もそのように行動し、ほかの人々の権利を尊重する必要があります。


「自分にとってよいこととは、他人にとってもよいことだ」という原則が必要とするのは、人間がよいことを行う中で、自己中心的にならないようにするということです。つまり、善いことを自分のためだけに求めるのではなく、そのよいことを社会レベル、または世界レベルで拡大し、醜く悪い事柄に反対することに当たります。
イスラムの教えでは、信徒はほかの人の考えに無関心となるべきではない、ということが強調されています。すべてのイスラム教徒は、自身や友人、同類の人々に善行をすすめ、悪い行いをやめさせるようにする責務があります。この責務は勧善懲悪といえます。これはイスラムにおける集団倫理を最もよく示すものであるとともに、イスラム的な生活様式における最も重要な基準です。
イスラム教では、善行は人間の宗教的な本質と一致する行為と認識され、悪質な行為もまた、人間の清らかな本質には一致していないとされています。つまり、人間の成長や完成の要因となる行いや、理性や法がその価値を認める行いは、善行とされ、個人や社会が完成に至る道から外れる原因となる行為や、人間的な価値観に反するとみなされる行為は、悪行とされます。
コーランでは、この重要な原則が注目され、これを行うことは、信徒の特徴であるとみなされています。例えば、コーラン第9章タウバ章、悔悟、71節には、次のように記されています。
「信仰を持つ男女は互いに助け合う。良いことを勧め、悪いことをやめさせる。礼拝を行い、喜捨を施し、神とその預言者に従う。神はまもなく、彼らに慈悲を授けるだろう。まことに神は、英明な方であられる」
このコーランの節に注目すると、本当の信仰のために必要なのは、ほかの信徒と友好的な関係を築き、彼らの今後に注意することであり、また相互の関心に必要なのは、互いに善行に導きあうことであり、悪や卑劣な行為を批判することです。この節によると、善行への導き、悪行の批判に必要なものとは、精神性の拡大と、神と預言者に対する服従であり、これは弱い人々に施しをおこなうことで実行が可能となります。最終的に、これらの行動すべては、神が終わりない恩恵を与えるという成果となります。善を勧め悪を避ける人は、神の御許で、それを行わなかった人々より高い地位を与えられます。
シーア派初代イマーム・アリーは、このような行為の特別な位置付けについて、次のように語っています。「神の道におけるあらゆる善行と努力、つまり勧善懲悪は、荒れ狂う大海原に対する一滴の水に過ぎないが、それらの中で最もすばらしいのは、抑圧的な支配者の前でも、公正な発言をし、真実を述べることである」
これまでお話してきたように、イスラムの教えは、人間は自分の周囲の問題に対応する中で、無関心であってはならないと強調しています。この包括的な指示、基準はイスラム的な交友関係のマナーも含まれており、このため、すべてのイスラム教徒は、他人との交流の中で、たとえ短い期間であっても、勧善懲悪を実行する責務があるということを意味しています。
他人との交流が、まずはじめに家庭環境から始まり、社会のより大きな単位につながるということから、勧善懲悪を行う義務も、はじめは家庭の集団の中で行われるべきなのです。家庭におけるこの行為の必要性は、完全に明らかです。家族はそれぞれの行為に対する聡明な、同情心ある監視役となり、生活において互いを精神的、物質的に助け合わなければなりません。
いずれにせよ、家庭環境は、そのほかの社会環境と比べて、小さく限定的です。しかし、この環境において、善を勧め悪を遠ざける下地はより広く、それぞれの責任はより重いのです。つまり、家族関係はずっと継続することから、正確に、緻密に、ほかの家族に親切に対応することで、気づき、このために責任感を感じるようになります。このため、コーランや預言者の一族の言行録では、公的な場での善行の実施と悪行の回避が強調されているだけでなく、家庭環境における勧善懲悪も、特定の形で薦められています。
コーラン第66章、タフリーム章、禁止、第6節では次のように述べられています。
「信仰する者よ、人間と石を燃料とする地獄の炎から、あなたがた自身とあなたがたの家族を守るがよい」
シーア派6代目イマーム・サーデグはこの節の解釈で、次のように記しています。「家族に対し、神が与えた命に従って指示し、神が避けるよう注意した事柄を行わせないようにすることだ。もし彼らが指示に従ったのであれば、彼らを地獄の炎から救い出し、神の命を実現することになる。たとえ、彼らが指示にそむいたのであっても、あなたは責務を果たしたのだ」
歴史では、この節が下されたのは、あるイスラム教徒が、座り、泣いていた時だったということです。それは、その人物が泣いている原因を尋ねられた、次のような答えが返ってきたときに下されました。
「私は自分を改善することができず、地獄に落ちるのを恐れています。神はまた、私の家族を地獄の責め苦から救済するよう、私に求めています」
彼の言葉は預言者ムハンマドに伝えられ、預言者は彼に次のように伝えました。「悲しむことはない、彼らを自分と同じように扱い、自分が避けることをやめさせるようにすればよい、」
善を勧め、悪を遠ざけることは、社会環境の中でも奨励されている宗教的義務です。イスラムの観点では、社会と個人の運命は、分かちがたいものであり、それぞれの改善や改悪は互いに影響します。このため、誰も、自分の責務を行うことを理由に、他人の行いや今後について無関心となるべきではありません。宗教的価値観の無視や侮辱は、少数の人々によるものであっても、意識的であれ無意識的であれ、その後、社会に悪影響を及ぼします。
人々の中にいる犯罪者とは、船に乗り合わせた一団の中にいて、海の真中で船に穴を開けようと決意してしまうような人物です。もしほかの人々がその危険な行為をやめさせなければ、彼は自分の場所だけに穴を開けるとして、彼に関与することなく、このため彼はその間違った目的を実行することになります。この結果、船は浸水し、沈没することになります。
罪を犯し、悪をなすことも、もし社会レベルで公然と行われるようになれば、すべての人にその被害が及びます。このため、不適切な傾向が現れないよう、健全で清らかな環境を作り出すため、社交のあり方、そしてよい行いを奨励し、悪を避けるに注意を払うという、宗教的、人道的な義務が生じます。イスラムの偉大な先人の言行録でも、罪や悪が社会の中で公然と広がった際、人々がそれに対して否定的な反応を示さなければ、一般の人々を苦しめることになるという真実が説明されています。

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