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2015/06/14(日曜) 20:08

イランの社会派映画の歴史(2)

イランの社会派映画の歴史(2)

前回からは、イランの社会派映画の歴史についてお話しました。今回も引き続き、その歴史についてご紹介しましょう。

 

イランでは、映画は都市化の現象として定義されています。それは、映画が都市に広まったためです。イスラム革命前のイラン映画の最も重要なジャンルは、社会派映画でした。イランの社会学者、パルヴィーズ・エジュラーリー氏は、「映画を分析する際、それを、その社会や文化を象徴し、反映するものとして見るべきだ」としています。エジュラーリー氏は、1950年代の西側寄りのパフラヴィー政権時代を例に挙げ、次のように語っています。「当時、西側の慣習が、急速にイランの伝統的な社会に入ってくるようになり、それにより、社会的な危機も拡大した。それが映画の脚本にも影響を及ぼし、節度を超えた新しい生活スタイルを表すような映画が公開されるようになった。だが、そうした新しい社会と伝統的な社会の間の矛盾や対立が真剣に捉えられることはなく、単に伝統的な社会が非難されるに留まっていた」

イランの映画評論家、ナーゼリヤーン氏は、1955年、「映画スター」という雑誌の中で、次のように語っています。「幸か不幸か、映画は他の芸術以上に現実と向き合わざるを得ず、映画を見る人たちは、何よりも、その映像が実際の生活を反映するものであることを望んでいる。私はイラン人の脚本家たちが、いったいいつまで、飲酒や不適切な男女の関係といった問題のみを映画のテーマにするつもりなのか分からない。外国の物語を参考にし、それをイランの環境にあてはめようとしているが、彼らはそれがイラン人の観客の好みには合わないことに気づいていない」

このように、多くの評論家や専門家が、革命前の映画はイラン社会の現実を反映するものではなかったと語っていますが、では実際のイランの社会はどのような状況だったのでしょうか? 20世紀の初めから今日まで、イランの社会は様々な出来事を経験してきました。立憲革命、ガージャール朝の崩壊、パフラヴィー政権の誕生、1941年のイラン占領、1953年のアメリカとイギリスによるクーデター、王朝の専制の強化、イラン国民の蜂起、1979年のイスラム革命、イラクのサッダームフセイン軍の8年に及ぶイランへの軍事侵攻、これらは皆、イラン現代史の重要な出来事であり、イラン社会は、それらの中で、様々な問題を抱えてきました。イラン映画もまた、この間、社会、政治、文化の様々な変化と密接に結びついていましたが、それぞれの時代に、それぞれの形でそれと向き合ってきました。

1934年に公開された、「映画俳優、ハージーアーガー」という映画は、イラン映画の歩みを描いており、現代化の象徴と伝統との対立を示していました。実際、初期の映画関係者の努力は、単に社会に映画というメディアのことを認識させることに限られ、その中で、多くが、古来の伝統や社会を攻撃し、現代化を推奨していたのでした。

社会を支配する政治体制と映画の関係は、イランの社会派映画の変化に大きな影響を及ぼしてきました。ガージャール朝、そしてその後のパフラヴィー朝の支配者たちは、初期の頃、映画活動を完全に監視し、常に、映画に関連する問題を監視する機関を設置し、映画の制作と公開を管理していました。当初は、道徳に反した映画の公開が市の行政によって禁止されていましたが、その後は、文化省がその務めにあたりました。しかし時の経過と共に、その活動は忘れ去られていき、しだいに映画に対する管理が行われなくなりました。宗教やそれに関連する問題を扱った映画は、様々な形で妨害され、その公開が阻止されていました。また、当時の耐え難いような閉塞感に満ちた状況を批判したり、政治的な風刺を含んだ映画は、公開が禁止されました。さらに、民間部門が参入するようになり、軍や政府に影響力を持つ人物が、思いのままに公開許可を得た映画を禁じ、その制作や上映を妨害していました。第二次世界大戦が始まり、イランが占領されると、映画のシナリオに対する管理機関が正式に設置されるようになりました。興味深いのは、この管理機関の最初の責任者は、クックという名前のアメリカ人女性であったことです。

では、イランの社会派映画が変化を遂げ、政府の干渉を受ける中で、イランの映画関係者はどのような映画を制作していたのでしょうか?当時、安直で技術的にも優れているとは言えないような、エジプトのコメディやインドのミュージカル映画が、イランで高い興行成績を挙げ、それらを模倣した映画が、確実に収入を得られる作品となっていました。そのためイラン映画は、この種の作品の制作に走り、イラン映画に、奇妙なジャンルを生み出しました。映画評論家はそれを、皮肉を含めて"ペルシャ語映画"と呼んでいました。つまり、それらの映画のイラン社会との唯一のつながりは、ペルシャ語が話されている、という点だけだったのです。1960年代から70年代、イラン映画は数の点で大きな成長を遂げ、年間100本近い映画が制作されました。しかし、この時期の映画は、様々な理由により、芸術的な繁栄を伴うものではありませんでした。

この時期の社会派映画の特徴の一つは、現代的な生活の中で安定した地位を持たない孤独な人物の存在です。彼らは法に反した悪いことをするならず者で、寛大な行動も取り、イランの伝統的な文化にある「任侠」という言葉を思い起こさせます。そのようなタイプの人物が、イラン映画では必ず登場して低俗さをもたらし、イラン映画を、後戻りできないような奈落の底に陥れました。とはいえ、「ゲイサル」という作品を作った「マスウード・キミヤーイー」のような映画監督は、このジャンルを復活させようと努め、このような人物から、現代的な悪人、あるいは社会の英雄に反した人物を描こうとしました。しかし、このような努力は、大量の価値の低い映画の傍らで、それほどの力を発揮することはできませんでした。

1960年代、歌と殴りあいのシーンばかりの、インドのミュージカル映画を模倣した作品が数多く制作されました。これらの映画のヒーローは、体つきのしっかりした若者で、粗暴ながらも心が優しく、人々の情けのなさを嘆き、歌を歌います。こうした映画の代表例が、スィヤーマク・ヤーセミー監督の「ガールーンの宝」という映画です。この映画は公開後、最高の興行成績をあげました。

1960年代末、若い映画監督が映画界に参入し、彼らは何よりも、芸術的な質と知識人たちに受け入れられることを重視していました。彼らの作品の多くは、「新しい潮流」として紹介され、批判的なテーマを扱い、社会の問題や下層階級の苦しみについて語っていました。この時期を代表する作品は、ダーリユーシュ・メフルジューイー監督の「牛」という映画で、当時の政治的、社会的な状況を強く批判し、隠喩的な表現によって、後に語り継がれる作品となりました。

この「新しい潮流」は、イスラム革命を前に衰退していきました。なぜなら、二つの方向から圧力を受けたからです。一つは、社会の混乱を描いたためにパフラヴィー政権の監視局から圧力が加えられたこと、そしてもう一つは、映画が伝えたいメッセージを理解できない、一般の観客の嘲笑や批判を買ったことです。実際、新たに進出した多くの映画関係者は、検閲を逃れるために不明瞭な言葉を用いたため、一般の人々には分かりにくい内容となってしまいました。さらに、彼らの一部は、特定の思想や政治の影響を受け、その作品の中で、それらの理念を広めようとしました。それにより、人々はこの種の映画から離れていき、最終的に、彼らは衰退に向かったのです。

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