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2015/06/23(火曜) 20:06

社会的なお付き合いのマナー

社会的なお付き合いのマナー

今回も、社会的なお付き合いのマナーにおいて奨励されている事柄と、否定されている事柄についてみていくことにいたしましょう。


前回は、家庭や社会で奨励される事柄と否定されている事柄についてお話しました。今回は特に、これらを実施する方法の一部についてお話することにいたしましょう。

既にお話したように、イスラムの見解では、個人と社会の運命は切っても切れない関係にあります。このため、人間は誰も、自分が責務を果たしていることを口実に、他人の行いや運命に無関心であってはなりません。イスラムの偉大な先人たちの伝承においても、社会レベルで発生する犯罪や悪事に無関心であってはならないとされています。シーア派6代目イマーム・サーデグはこれについて、預言者ムハンマドの言い伝えとして次のように述べています。
「神の僕である人間が、他人に隠れて悪事を行えば、その本人のみが害悪を蒙る。だが、公然と引き起こされた犯罪に対して、他人から何の反応も示されなければ、社会全体がその被害を受けることになる」

イスラム的な生活様式における明白な基準の1つは、勧善懲悪により良い行いを奨励し、悪い行いを否定することです。この責務は、特定の人物や集団に限られず、社会の構成員全ての義務とされ、実際には全てのイスラム教徒に適用される、一種の全体的で公的な監視ということになります。この勧善懲悪が重視され、大切にされているのは、それが人々を導く要因となり、社会の精神衛生が保証されることが理由です。勧善懲悪は、神のメッセージであり、神の僕として相応しい人間は、悪事を働く人々にこのことを教え、勧める責務を引き受けることになります。
勧善懲悪において非常に重要なことは、その方法に注目することです。誤った方法により、勧善懲悪の効果が得られない、或いは逆効果となっている例は数多く存在します。勧善懲悪において注目されるべき最も重要な原則の1つは、それを実行する人が自分に出来ることを実行することであり、否定されている事柄を避けることです。
自分では良い事をしたいと思わず、また卑劣な行為を完全にやめられない人は、他人に何かをする、或いは何かをやめるよう促すことはできません。自分の発言や訓戒が、相手の心に響くようにするためには、自分の言動が一致していなければなりません。これについて、神はコーラン第61章、サフ章、「戦列」第2節において、次のように述べています。
"信仰心に目覚めた人々よ、なぜ自ら行なわないことを口にするのか?"
コーランはまた、社会からそれを実施するよう期待されている社会的な義務を実行しないことを忌み嫌い、これを人間の愚かさの印だとしています。コーラン第2章、アル・バガラ章「雌牛」第44節では、次のように述べられています。
"あなた方は、コーランを読み、人びとに善い行いを奨励しておきながら、自分はそれを実行することを忘れてしまったのか。あなた方は、自らの知性を活かさないのか?"
イスラムの偉大な先駆者たちも常に、信者たちに対し、言葉で人々を導くのではなく、自らの行動により、人々の模範となるよう奨励しています。これについて、シーア派6代目イマーム・サーデグは次のように述べています。
「言葉以外の手段をもって、人々を善行へと導くがよい」

さらに、イランの思想家モタッハリー師は次のように述べています。
「あらゆる改革者は、改革者であるためには、まず正しい人間でなければならない。預言者ムハンマドが人々に指示した事柄について、まず預言者自身が先に立ってそれを実行していなかったならば、他人が彼に従うことはまずありえなかったはずである。礼拝に関しても、まず彼自身が誰よりも徹底して礼拝を行なっていたし、神の道における他人への施しや、人を許す寛大さ、自己献身についても、誰よりも先に自己献身を行なっていたのは、モハンマド自身だったのである」
勧善懲悪を実施する上で守るべきもう1つの事柄は、穏やかでよい言葉遣いを守ることです。勧善懲悪を促す人は、自分の言葉が相手に影響を及ぼすべく、親しみを感じさせる言葉遣いをすべきです。口汚い話し方では、迷っている人を導くことができないのみならず、その人に対する恨みを抱かせたり、その人を自己中心的にすることになります。そのような人々は、真理に反対しているため、もはや簡単には導くことはできません。これについて、シーア派初代イマーム・アリーは、自分の息子ハサンに対し、次のように述べています。「叱責や非難をしすぎてはならない。なぜなら、それは恨みを生み出すからである」
このため、勧善懲悪の実施に当たっては、もっとも効果的で最良の言葉を選ぶ必要があります。それは、よいことを奨励し、悪事を避けるよう勧める人間は、事実上神のメッセージの伝達者だからです。この天からのメッセージが最もよい形で相手に影響を及ぼすためには、最も清らかで心に染み入る言葉を使うべきなのです。
善を勧め悪を回避するために効果的なもう1つの方法は、人々の信頼を得ることです。もし、忠告を聞く人が信頼感を持っていない場合、その忠告は何の影響も与えません。忠告したり、禁じたりしようとする人は、それが善意や同情によるものだと説明する必要があります。預言者たち、とりわけイスラムの預言者ムハンマドが成功した秘訣とは、彼らが個人的、物質的な利益を求めず、信者をよりよい存在にする目的しか持っていなかったことにあります。コーランは、預言者ムハンマドに関するこの事実を人々に強調しており、第9章、タウバ章「悔悟」、第128節において次のように述べています。
"今、神の使途があなたがたの間から、あなた方の方にやって来た。彼は、あなたがたの悩みごとに心を痛め、あなた方を導きたいと主張している。そして、信者たちに対し優しく、また親切である"
このため、相手の信頼を得ることは勧善懲悪が効果的なものになる上で、大変重要な役割を果たしています。

勧善懲悪を行う中で、重要な手段として考慮すべきもう1つの点は、他人の信条を尊重することです。人間は時折、自分が正しいと思い込んでいるために、その反対の行動をとり、それが価値あることだと思い込んでいるケースが多く存在します。このような人々に善い行い勧め、悪いことをやめさせる場合には、彼らの信条をけなさないよう注意する必要があります。自分の信条に従って誤った行動をとる人に応対する場合、論理をもって話し合いに臨み、穏やかさによって相手をの過ちに気づかせる必要があります。コーラン第16章、アン・ナフル章「蜜蜂」第125節には次のように述べられています。
"英知と良い言葉で、凡ての者をあなたの主の道に導くがよい。よりよい態度でかれらと議論しなさい。あなたの主は、誰が神の道から外れた者と、導かれた者を最もよくご存知であられる"
明らかに、どのような人々にとっても、その人の信条は尊重されるべきものであり、自分の信条や習慣を侮辱されることは、自分自身を侮辱されたものと見なして反発します。相手が持つ誤った習慣や信条をけなすことは、事実上効果のある正しい行動をとったことにはなりません。それは結果的に、相手を導き、救うことはなく、相手をその誤った信条に益々固執させてしまうことになります。コーランは、この点について非常に適切な警告を与えており、第6章、アル・アンアーム章「家畜」、第108節において次のように述べています。
"あなたがたは、神以外のものを崇めている人々を侮辱してはならない。それは、彼らが無知のために、乱りに神を罵らないようにするためである。我々はこのようにして、それぞれの共同体にその行動を正当だと示した。それから、彼らは神のもとに帰る。その時、神は彼らが行なった行動に気づかせる"

また、人格を尊重することも善を勧め悪を遠ざける上で留意すべき事柄の1つです。そうすることで、忠告や助言が反発されたり、否定的な反応を受けることなく受け入れられるのであれば、相手の心から悪い考えを洗い流し、美徳が備わるようになるのです。

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