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2015/06/29(月曜) 19:16

イランの社会派映画の歴史(3)

イランの社会派映画の歴史(3)

今回のこの時間も、イランの社会派映画についてお話しましょう。イスラム革命前、このジャンルの映画は、数は増えたものの、質が低く、大きな抗議や観客の批判を浴びていました。映画評論家は、イランの当時の社会状況について、このように話しています。「パフラヴィー政権は、映画館をモスクに対立させ、当時、ラジオすら聞いたことのないような人々を堕落した映画へと引き寄せていった」

 

映画産業を有する多くの国の映画の歴史においては、様々な社会的、政治的な変化の影響を受けた多くの流れや飛躍が見られます。例えば、イタリアやフランスでは、ナショナリズムなどの流れが見られるきっかけとなりました。しかし、これらの全てに共通するのは、それらの国の映画界に広まっていたそれまでの古いシステムや体制から解放されようとする動きが見られたということです。

1968年、イラン映画は大きな変化を遂げ、それは後に、新たな潮流として知られるようになり、フランスのニューウェーブと似たようなものでした。イラン映画の新たな潮流は、フランスのものほど、大きな影響を及ぼすことはありませんでしたが、それでも、イラン映画の歴史に真の変化をもたらしました。

1960年代の必要性とイランの社会的、政治的な変化により、人々の生活は大きく変わりました。西側の経済、政治、文化的な影響力が人々の生活のあらゆる側面に広がっていました。西側の商品や浪費主義、大小の産業の輸入が拡大し、それが人々の伝統的な生活の傍らで、文化や芸術を愛する人々の新たな世代を立ち上がらせました。当時の知識人たちは、人々の問題や貧困、社会問題への注目を優先に据え、イランの理想主義的な映画に変化をもたらしました。

しかし、このような状況はそれほど長くは続かず、イランの商業目的の映画が、この流れを鎮めさせました。その後も、新たな潮流のありふれたつまらない映画が制作され、公開されましたが、衰退に向かっていた当時の映画に変化をもたらすことはありませんでした。商業目的の映画の制作によって利益を狙う人々、そして社会の一部の人々は、この種の映画を広める上で多くの能力を発揮し、それに本質的な変化を与え、非常に低俗な映画の生産を広げていったのです。

こうした映画のストーリーは、その時代を描いたものですが、社会に存在した特徴を持った関係や人物は登場しません。とはいえ、この種の作品が、事実をもとに制作されていたことも否定できません。しかし、そこで描かれている関係や結末は、社会的な事実とはそれほど関係がなく、社会の一般の人々の生活を示したものではありませんでした。

ちょうどこの頃、暴力や放縦といった有害な要素がイラン映画に入り込み、それに大きな影響を与えました。しかし、1977年まで、イラン映画が破綻に向かっていることは本当に信じられてはいませんでした。その頃、映画制作はひどい混乱をきたし、映画制作に明確な規則がなかったこと、この機会を利用する人たちがどんどん参入してきたことにより、危機はますます拡大するばかりでした。

この頃の出版業界の関係者の一人は、映画と一般の人々の間に全く調和がなかったことを挙げ、次のように記しています。「我々の国イランの映画は、社会の急速な変化に追いつくものでなければならない。労働者や農民が映画館に行くとき、どんな映画を見たら、彼らのためになると考えられるだろうか? イラン映画は、観客の85%を占める、この階層の人々のために、一体何をしたらよいのだろうか?」

1978年、映画界には、失望や不安、困惑が広がり始めました。政府の基盤が揺るぎ、政治、経済、文化、社会の構造に不満を抱えていた国民は、その不満を増大させていきました。映画関係者が、経済的な状況を理由にストライキを行い、その衰退を促しました。また、一部の人々が、堕落した映画に対する抗議のしるしに映画館を襲撃し、こうした作品の上映の中止を求めました。もちろん、人々が求めたのは堕落した映画の中止のみであり、映画自体とは何の問題もありませんでした。しかし政府関係者は、文明の象徴に反対する革命支持者たちを非難するために、一部の映画館に火をつけました。このようにして、1979年2月、イランのパフラヴィー王政が倒れ、イスラム革命が勝利したのと同時に、当時の逸脱した価値のない映画も排除され、イランの映画は、新たな段階に入りました。

イランの新時代の映画誕生の歴史は、イスラム革命勝利の歴史であるとも言えます。その革命は、文化部門、何よりも映画界に大きな変化をもたらしました。革命後の映画は、暗い過去を乗り越え、新たな段階を迎えました。イランの社会は変化しており、それが、社会派映画に、他のどのジャンルよりも大きな変化をもたらしたのです。人々の社会的な要求は、おのずと、街頭のデモや集会で叫ばれるスローガンに表れます。「独立」、「自由」、「イスラム共和制」、この頃のイランの社会派映画も、これらのスローガンと同じ方針を採っていました。この頃のイラン映画の主な目的は、映画という芸術を、西側映画の足かせから解放すること、映画産業の経済的な構造を見直すこと、そして若い才能を惹きつけることにありました。

さらに、人々と映画との関係も見直される必要があり、観客の信用を取り戻し、映画館へと足を運ばせる必要がありました。様々な計画が行われ、一部の関係者の真剣な取り組みにより、映画制作が再開されました。
この頃の映画は、多くが、人々の王政に対する闘争や革命勝利につながった人々の英雄伝を描き出すものでした。そしてそのタイトルもまた、「自由に向かって」、「歴史の鼓動」、「流血」、「蜂起」、「処刑」など、映画の内容と直接、結びついたものでした。

この中には、それほど質の高くない映画もありましたが、社会的な影響の点で、重要な作品と見なされています。これらの映画では、王政に対する強い批判が見られ、一般の人々に対する圧制や、彼らが味わった悲劇が描かれています。

イスラム革命勝利後、映画は、農村社会が受けた圧制を描きました。とはいえ、社会的な出来事による影響が、映画製作者たちを、当時の東ヨーロッパの一部の国の模倣へと向かわせたことも否定できません。彼らは、社会運動を、特定の政治グループと結びつけ、左派的な政治グループの立場を描くような作品を制作していました。しかし、そのような流れも長くは続かず、状況は安定し、政治が整えられると、映画の制作や公開にも安定が見られ、社会的な問題が提起されるようになりました。

その後、1980年代にイランイラク戦争が始まり、それから8年間、その状況が続くと、イラン国民は新たな状況を迎え、それが映画にも影響を与えることになったのです。

 

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