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2015/08/12(水曜) 19:32

人間の創造における驚異(4)

人間の創造における驚異(4)

これまでの番組では、神を知る方法についてお話してきました。実際、神を知るための多くの方法が人間の前には提示されています。人間はそれぞれに、神を見出し、認識します。概して神を知る方法は三つに分けられます。一つは経験です。人間は驚くべき創造に関する研究や世界に存在する秩序を目にすることで、全知全能の神の存在を見出します。つまり結果から原因に到達するのです。自然世界で目にしたものに基づいていることから、この方法は経験の法と呼ばれています。当然この方法は、理性的な価値と原則を必要としています。これまで数回の番組では、創造の驚異について触れると共に、「神を知ること」について取り上げました。

 

2つ目の方法は、本能、心の赴くままに従うことです。つまり人間は自分で意識せずとも、理性的な推論、あるいは経験を必要とせずに、自らの神を見出します。それはまるで自らの内なる心の声が人間を生命世界の根源へと導いているかのようです。これまで2回の番組で、この種の神を知る方法に関する話題を取り上げてきました。そしてもう一つの神を知る方法は、知性や理性的な推論による方法です。この方法においては、一連の原則や知性的な方法の助けにより、神の存在の原則やその性質が明示されます。明らかに理性的な方法は、宗教的な信仰の強化に効果的です。なぜなら人間の知性や理性は、真理、神に対してへりくだり、その心もまたそのような傾向を見出すからです。理性的な推論によって疑いをそぎ落とすことは、信仰の維持とその緩みの防止において効果的な役割を果たしています。

知性や哲学の議論に対する人間の探究心に注目すると、思想家や哲学者は、世界を知る、神を知るという問題を、理論によって追求し、注目に値する結果も手にしています。今夜の番組では、神の存在の証明についてお話しすることにいたしましょう。

世界の存在物について少し考えてみると、原子から銀河、惑星、植物、動物、人間まで、それらがすべて、それぞれの存在物に結びついていることがわかります。つまりその出現において、別の要素が必要とされ、そうした要素がなければ、存在物は生まれないのです。言い換えればこれらの存在物は、その世界で独立しておらず、一連の理由、要素を必要としているのです。

存在物が様々な要素の存在に依存していることから、これらはある時期は存在し、ある時期には存在しません。これはそれらが太古の昔からこの世界には存在せず、後に創造されたということを意味します。ここで、この存在物は自らの命をどこから見出したのか、どこに起源があるのか、という疑問が沸いてきます。例えば、ある植物、あるいは人間の出現には物質的な要素に突き当たります。しかしその理由、要素はおのずと別の要素に結びついているのではないでしょうか。そうです、それらは、別の要因に結びついているのです。例えば、土の中から一つの種が芽生えるとき、日光、水、ミネラルといった要素が影響し、こうした要素の存在は植物の芽生えに必要なものです。水、土、ミネラル、日光もまた、それぞれ、その出現においてその他の数多くの要素に結びついています。つまりある時には存在せず、後に出現したのです。

こうして生命の存在は、一連の理由に結びついており、それらすべては依存しています。こうした一連の依存、必要性は、最大限に続くのでしょうか。つまりこれらの要素すべてが依存性を伴う存在物でありえるのでしょうか。いいえ。なぜならこれらの要素は最終的に何物も必要としない存在物に繋がるべきだからです。つまりその存在は他の理由や要素を必要としたり、依存しているのではなく、その存在自体に依存しているのです。そうでなければ、存在物の出現の理由を説明する際に、堂々巡りになってしまいます。

イランの学者でコーラン解釈者のマカーレム・シーラーズィー師は、この問題を説明するため、シンプルで分かりやすい例を提示しています。彼はこのように書いています。「子どもの思考回路に注目する際、彼らの思考が科学や哲学の入り組んだ議論や推論に陥らないことから、彼らの性質は健全で手付かずのまま残される。それゆえ、堂々巡りを受け入れず、それを不可能で非合理的なものと見なす。好奇心旺盛な子どもはたいてい両親に対して様々な存在物の出現の理由に関して質問する。例えば子どもは父親に尋ねる。あなたは僕のお父さんで、あなたのお父さんは誰なの、と。父親は答える。私のお父さんは誰々だよ、と。子どもは続けて尋ねる。彼のお父さんは誰?父親は誰々だと答える。子どもはこのようにして、好奇心で質問を続け、ついに父親は彼に言う。私たちのお父さんは預言者アーダムなのだよ、と。子どもはこれにも納得せず、彼のお父さんは誰なの?と尋ねる。父親は「神様はアーダムをお父さんなしに作られたのだよ」と答える。子どもはまた納得せず、「神様のお父さんは誰なの?」と聞く。そこで父親は子どもの本能に注目し、彼に明確な回答を提示して言う。神はすべての存在物の創造主であり、彼の存在は彼自身から出てきたものだ、と。興味深いのは子どもはここで納得し、質問をやめる。当然父親がこの回答を提示しなければ、子どもは納得しなかっただろう」

このように全般的な説明において、すべての世界の存在物は、何にも依存していない存在を必要としています。それこそが唯一の神、世界の創造主です。マカーレム・シーラーズィー師はこれについてこのように語っています。

「この一連の原因と結果がある場所で停止され、もはやその原因が存在しない場所にたどり着くとき、つまり、その存在がそれ自体からのものであるとき、神の存在に関する宗教学者の主張は証明される。しかしながらもし一連の原因と結果が同じ方法で進み、証明に至らず、原因が無限に続くとき、スパイラルに陥るが、それもまた人間の健全な良心と知性によって無効となる」

フランスの有名な哲学者・数学者のデカルトは、これに関して、特別な推論の方法を有しています。彼はこのように言っています。「私という存在は独立しているか、他の存在に依存しているか?もし独立していたら、つまりそれ自体がそれを生み出した原因だと言うことであり、すべての善きものを自分自身に与え、もはや私の中に欲求は存在しない。つまり私は神になったということだ。しかし私が自分自身に生命を与える能力を有していたとしたら、自身の存在を継続させることができるはずである。しかしこうした力はなく、私という存在の継続は他の存在物に依存している。それこそが神であり、その存在は完全に自存的なものであり、そうであるからこそ、全知全能であるといえる」

デカルトはこうした推論により、実際、自分自身の存在の独立していない依存性により、神の存在を証明しようとしています。言い換えれば、世界に、ある存在があることを受け入れた後、この存在をそれ自体から生まれ、何も必要としない永遠の存在として認めざるを得ないのです。 

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