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2015/08/15(土曜) 20:37

恵まれない人々への支援

恵まれない人々への支援

今回は、付き合いと社交のマナーの続きとして、恵まれない人々への支援と、イスラム的な生活様式における良い行いについてお話することにいたしましょう。

 

博愛主義により、仲間に親切にすることは、人間の本質的な行動です。実際に、神は全ての人々に対し、内面的な動機や欲求として仲間を助けたいという感情を授けています。人間は、本能的に美しいものを求め、堪能する性質を持っています。このため、人間として相応しい行いは、一般の人々に賞賛されるのです。よい行いは、人間に精神的な快感や心地よさをもたらすに相応しい、価値あるものであり、多くの人々に歓迎され、賞賛されます。神は、コーランの多くの節において、良い行いや、それを行う人を賞賛しており、その例として、コーラン第2章、アル・バガラ章「雌牛」、第112節では次のように述べられています。
"神に自分の真心を尽くして従い、帰依し、善行に勤しむ者は、神のもとにある彼らの報酬が維持される。彼らは、恐れも悲しみもないであろう"
神はこの節において、神に注目した後で、他人を助け親切にすることを述べています。言い換えれば、神への信仰心の影響は、実際に善行を行うことで現れるということです。イスラムを初めとする神の全ての啓示宗教は、よい行いを特に重視しており、本当の信者やきちんとした思想を持つ人々は、いつの時代も、またどの世代であれ、この美しい性質を身につけようと努力してきたのです。

イスラムの文化では、良い行いは公正であることよりも優れるとされています。なぜなら、公正さとは人間が責務を実行し、それに相応しい見返りを受けるのに対し、良い行いとは、責務以上のことを行う割りには見返りは少ないからです。神は確かに、正義を中心として世界を創造し、神の定めた掟は正義に基づくものですが、人間関係はこの範疇を超えて定義され、実際には公正さはこの関係よりも低い位置づけにある、ということに留意すべきです。まさに、その高いレベルにあるのは良い行いなのです。
人間の関係をある枠組みの中で定義する場合、法律と倫理という2つの側面から問題を捉える必要があります。人間関係は、人間関係の最低限のレベルの法律に基づくものですが、単純に法律の枠内で定義することは出来ません。人間は、感情や知性を有しており、それぞれ違ったニーズを持っています。イスラムでは、公正さと善行が強調され、公正の確立は決して善行を否したり、或いはその逆を意味するものではありません。善良な人間は、人間関係において心や感情、愛に基づいて、法律や正義を超えた歩みを進め、人間社会を優しさや愛情により強化することに努力するものです。
善行や寄付は、人間によい影響を及ぼします。たとえば、そうした行動は自己献身の精神を強化し、寛容さの下地となります。また、人々の間に助け合いや協調のムードをつくり出しますが、これは大変価値あるものです。コーランの教えを見ると、他人に対する親切は、特定のグループや人種に限られず、あらゆる時や経済的状況において考慮されるべきものとして重視されています。これについて、コーラン第3章、アール・イムラーン章、「イムラーン家」、第134節では、次のように述べられています。
"よい時も困難なときも、寄付を行う者、怒りを押えて人びとの過ちに寛大である者、誠に神は、善行をなす者を愛される"
どのような状況にあっても、よい行いに努める人は、実際に心の中に他人を助け、よい行いをしようという精神がその人の魂に影響を与えています。

ここでおそらく、自分が経済的に困っているときに、どのようにして他人に施しをし、親切にできるのかという疑問が出てくるかもしれません。この疑問に対し、そのような場合には自分の出来る範囲で他人に親切や施しをする、という答えを示すことができます。一方で、他人に対する親切や施しとは、単に物質的、金銭的なものに限られず、物質的な富をはじめ、知識や学術、それ以外の恩恵といった、あらゆる神からの恩恵も含まれます。このように、神は恵まれない人々に、自己献身や寛大な精神を定着させようとしています。なぜなら、イスラムは社会から恵まれない状態を解消する重要性に加えて、全ての人々に対する親切や施しに目を向けているからです。
他人に対する親切は、2つの形で現れます。1つは、個人的な道徳規範、もう1つは社会的な行動の規範の中に現れます。もっとも、ここでは人間の性格的、倫理的な人徳はその人の行動や反応にも現れる、ということに注目する必要があります。神は、コーランの節の中で神の預言者一門の優しさや忍耐、礼拝、徹夜での祈祷、早朝の祈りを、他人への善行としています。なぜなら、これらの個人的な行動はいずれも、人格を形成するものであり、その人の社会生活に驚くほどの効果を及ぼすとともに、生活様式をも変化させるからです。
例えば、善行を示す1つの例として、神への信仰心を挙げることができます。神や来世、コーランへの信仰心は間違いなく、その人の行動にも表れ、そうした信条やものの見方によりその人の行動や生活様式までも変化させます。さらに、崇高で善行を行う信条は、生活全般に影響を与えるのです。

社会的な行動においても、よい行いの実例は2つに分けることができ、そのうちの一部は好ましくない行いをやめること、そして一部は好ましい行いをすることだと言えます。この意味で、コーランでは行動をすることだけがよいとされるのではなく、今行っている好ましくない行動をやめること、さらにはそうした行動をとらないことも、善行の一部とされます。神が、行動の自制を善行としている実例には、怒りを抑えることなどがあります。言い換えれば、怒りを抑えることは、善行の1つとされています。
このため、神によると、敬虔さは善行の1つとされます。なぜなら、敬虔な人は常識や戒律で、醜い穢れた行動とされている行いを控えるからです。このため、完全に敬虔な人は、個人的、社会的な行動の全てにおける最高の状態を心がけます。さらに、大きな罪を犯さないようにし、穢れた行動を回避することも、コーランではよい行いに当たるとされています。
神は、常識やイスラム法で正しい行いとされている行動を、よい行いとして提示しています。そうした行動には、神の道におけるささげものや献身、責務の遂行、他人の過ちに寛大になり、赦すこと、家庭の問題において和解し折り合うこと、高齢者の状況を配慮すること、恵まれない人々を支援すること、救貧税などの寄付を納めること、特に親戚に対する施しをすることが挙げられます。
コーランで述べられているこれらの例から、よい行いが人間にとって高い重要性を持ち、人間が公正さに基づいてどれほど高い地位を得たとしても、人間性はその人のよい行いにより極みに達する、ということを知っておく必要があります。このため、イスラム的な生活様式では、正義に加えて、善行を中心とした行動をとらなければなりません。なぜなら、人生を本当に意味のあるものにしたい場合、戒律や理性という範囲に加えて、人間としての感情にも目を向け、善行を中心として自らの生活を整える必要があるからです。いずれにせよ、イスラム的な生活様式における人間関係は、正義を超えたレベルで形成される必要があり、その基準となるのはまさに善良さやよい行いなのです。

 

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