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2015/10/07(水曜) 20:28

ナーセル・ホスロー(2)

ナーセル・ホスロー(2)

今回は前回の続きとして、11世紀のイランの優れた思想家で、広大なイラン文化圏で生活していた、詩人のナーセル・ホスローの生涯とその作品について検討することにしましょう。
前回は、ナーセル・ホスローが西暦11世紀に当たるイスラム暦の5世紀の高名な詩人であり、若いころから宮廷に使え、43歳の時にある夢を見たことから、精神的な変化を遂げ、メッカ巡礼に出たとお話しました。彼は旅に出てから7年後、故郷に戻り、宮廷に使えることをやめ、禁欲生活と神学研究、思索にふけりました。

 

ナーセル・ホスローは、現在残されている貴重な自著の1つである旅行記の序で、彼の思想の変化と、人生の転換の原因となった夢について、次のように語っています。
「私はある夜、夢を見た。その中で、ある人物が私に対して、『理性を失わせる酒を、いつまで飲みたいと思っているのか?しらふになったほうがよい』と語りかけた。私は夢の中で、『賢者たちは、この世の悲しみを軽減する酒を作ることぐらいしかできなかった』と答えた。それに対して、『酒で悲しみを紛らしている迷妄状態の中にいても楽ではない。人々を迷妄に導く人物を賢者ということは出来ず、より賢明となることを求めるべきだ』という答えが返ってきた。私は、『では、その賢明さをどこで手に入れられるのか』と聞くと、その人物は『求めよ、さらば与えられん』と語り、メッカの方向を指し、それ以上何も語らなかった」。
ナーセル・ホスローが眠りから覚めたとき、この言葉が彼の記憶に残っており 彼に深い影響を及ぼしました。彼は自分に対して、「昨晩、眠りから覚めて、いま40年の眠りからも覚めなければならない」と語りかけたのです。彼は自分の行動や振る舞いをすべて変えると決意し、夢で示されたメッカへの巡礼に向かいました。彼は西暦1046年にあたるイスラム暦437年、兄弟のアブーサイードとインド人の従僕を伴ってイランの北東にあるマルヴを出発しました。彼はイラン北部からシリア、現在のトルコに当たる小アジア、パレスチナ、メッカ、エジプトに赴き、再びメッカとメディナを訪れました。そして、メッカのカーバ神殿への巡礼を終えた後、イラン南部から故郷に帰り、バルフに向かいました。この7年間の、距離にしておよそ1万5000キロの旅の成果とは、彼にとっては思想の転換であり、われわれにとってはナーセル・ホスローの貴重な旅行記なのです。

ナーセル・ホスローは3年間エジプトに滞在したことで、シーア派イスラム教の一派、イスマーイール派の信徒と知り合いになり、イスマーイール派を受け入れるようになりました。イスマーイール派の信徒は、シーア派6代目イマーム・サーデグが死去した後、彼の息子ムハンマド・ビン・イスマーイールがイマームの地位を継承し、生きている時にお隠れ状態となり、今尚その状態のまま生存していると信じています。イスマーイール派の信徒は学者を大変重んじていたため、ナーセル・ホスローもこの宗派に傾倒するようになったのです。そして、エジプトのファーティマ朝のカリフ、ムスタンスィルに仕え、彼からホラーサーン地方の師という称号を受けました。
ナーセル・ホスローがエジプトや現在のサウジアラビアに当たるヒジャーズ地方からホラーサーン地方に帰ったとき、彼は50歳でした。当時、セルジューク朝の支配者が統治を始めたと同時に、ナーセル・ホスローはバルフに行き、そこでイスマーイール派の布教活動を開始しました。さらに、人々を宣伝のために周辺地域に派遣し、自身もスンニー派のイスラム法学者と議論を行いました。偏った思想を持つ人の中で、次第に彼の敵が増えるようになり、ナーセル・ホスローの殺害を命じる教令も出され、彼は生活するのが困難になりました。
ナーセル・ホスローと当時のイスラム学者の間に、大きな確執が生じ、これは彼が死去するまで彼の作品に影響を及ぼしました。これは彼の詩集のあらゆる部分で明らかにされています。彼が当時の人々やセルジューク朝の総督たち、ホラーサーン地方のスンニー派のイスラム法学者に対して抱いていた不満は、詩の中で表されており、多くの句の中には反対者との熾烈な宗教的対立が語られています。
ナーセル・ホスローは、自分に対する反対や敵意が高まったため、ホラーサーン地方のほかの都市や、イラン北部のマーザンダラーン地方の一部の町に赴き、布教活動を続けました。マーザンダラーン地方では、彼に従うものが出ましたが、それでも人々からそれほど歓迎されたわけではなく、赴いた先々で暴力的な対応を受けたと考えられます。彼は結果的に、現在のタジキスタンにあるバダフシャーンを訪れ、この山岳地帯での隠遁生活を送り、孤独の中で悲嘆にくれ、書物を執筆して日々をすごしました。彼のほとんどの著作は、この山岳地帯における15年間の隠遁生活の中で記されました。彼はこの時期、バダフシャーンの総督で、イスマーイール派を信仰していたアリー・ビン・アサド・ビン・ハーレスという人物の支援を受け、彼の要請によってイスマーイール派の教えに関する本を記しました。
ナーセル・ホスローは死去するまで、バダフシャーンで生活し、この地で死去し、埋葬されました。彼の墓は、彼の死後しばらくはイスマーイール派たちの墓とされていたものの、ドウラトシャー・サマルガンディーという人物の伝記には、次のように述べられています。
「ナーセル・ホスローの墓は現在のアフガニスタン北東部にあたるヨムガーンの谷にあるといわれている。その後の旅行家たちも、ヨムガーンの谷で詩人の墓を見かけており、現在も存在している」これについては、地元の人々の間では数多くの言い伝えがあるとされています。
ナーセル・ホスローが長期間にわたりヨムガーンに滞在したことで、バダフシャーンや現在のウズベキスタンに当たるコーカンド、ブハラまでの広い範囲でイスマーイール派が広まり、受け入れられるようになりました。現在もこれらの地方には、イスマーイール派を信仰する人々が見られます。

ナーセル・ホスローの韻文、散文による貴重な作品は、現代にまで伝えられています。彼の散文による作品は、『旅行記』、『宗教の書』、『巡礼記』などが挙げられます。彼の『旅行記』は、7年間の旅がシンプルな散文により綴られ、彼が長年にわたり、さまざまな地への旅の中で見てきた、地理、歴史、人々の宗教や慣習に関して、正確な情報を多く盛り込んでいます。
そのほか、ナーセル・ホスローの散文は、神学全般に関するものがあり、イスマーイール派のさまざまな宗教的な内容を説明していたり、この宗派の信仰の問題に関する疑問に解答しています。これらの散文作品の中で、『巡礼記』は最も重要で、イスマーイール派の神学に関する最も有名な書籍とされています。この本は、西暦1061年に当たるイスラム暦453年に執筆されました。この本は、27の章で構成され、身体や感覚、それに帰属するものや、精神と物質、場所と時間、世界の創造、身体と精神・物質とのつながりのあり方、復活、輪廻を信仰する宗教の否定、来世の結果と報奨に関する証明を扱っています。
ナーセル・ホスローの『宗教の書』は、彼のもう1つの重要な作品で、イスマーイール派の神学と、イスマーイール派の方式による宗教法の掟、宗教的行為の内実、イスラム法の解釈について語られています。ナーセル・ホスローのすべての本は簡潔で雄弁、かつ古い形式の散文で記されており、哲学や神学の用語理解のための、ペルシャ語による良書となっています。なぜなら、神学に関する彼の著作はすべて、哲学的で実証的な形式で記されており、それらを理解するには哲学の基本的な情報が必要だからです。ナーセル・ホスローの著作は、その多くが現代にまで伝えられています。

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