このサイトは更新されていません。新サイトはこちらです。 Parstoday Japanese
2015/10/28(水曜) 18:21

ナッガーリー(6)

ナッガーリー(6)

今回の番組でも、ペルシャ語の民俗文学のジャンルの一つ、ナッガーリーについてお話してまいりましょう。それではどうぞ最後までご一緒ください。

 

ナッガーリーの物語は、多くが空想に基づいたものであり、語り手と聞き手は、教師と生徒のような関係です。物語の語り手であるナッガールは、常に物語の合間で教訓や忠告を与えます。また、現在、ナッガールは、ガフヴェハーネと呼ばれる喫茶店、あるいは公共の場所、広場などで、独特の風俗習慣によって、民族物語や英雄物語を語ります。ナッガールは語り手であると同時に、役者、監督でもあります。

研究者たちは、ナッガーリーは、部族の集まり、つまり、焚き火の回りに集まって踊ったり、森林で踊ったりといった形で始まったとしています。さらに、ナッガーリーは当初、様々な表情や動作によって一つの出来事を述べる一人芝居のようなものだったということです。一部の人々は、それが数人による劇の始まりだったとしています。一部の資料や部族の長老たちの話からわかっているのは、当初、部族の人々、あるいは一つのグループが集まって部族の首長の言葉を聞いていたということです。そこで語られていたのは、様々な出来事や伝説などでした。

物語は、多くの社会において人々を惹きつけており、様々な形で人々の間に広まってきました。シーア派の学者、伝記作家のイブン・ナディームは、著書「目録の書」の中で、最も古いイラン人の間に、すでに物語を語る風習が広まっていたとしています。物語の語り手は、人々が集まる場所で様々な種類の物語を語り聞かせていました。現在の形のナッガーリーは、16世紀に広まり、その多くはフェルドウスィーの英雄叙事詩、シャーナーメを語るものです。ナッガーリーの主な聞き手は一般の人々です。イランでは、シャーナーメの語りは、民族的な演劇のようなものであり、普通の人々によって行われ、いかなるグループや信条、体制にも属していません。

ナッガーリーにおいては、舞台演出は行われません。語り手であるナッガールは、服を着替えたりもしません。ただ木の棒を持ち、情熱のしるしである独特の動きを示します。ナッガールの道具は、木の棒とその人の語り方、口調です。ナッガールは常に、聞き手に向かって語りかけ、聞き手に物語を信じ込ませようと努めます。ナッガールが立つ場所は、聞き手よりも高い位置にありますが、時に、金を受け取るために観客の方に近づくこともありました。ナッガールの賃金はガフヴェハーネの持ち主から支払われることもありますが、時には観客から金を受け取ることもあります。

ナッガールは、プログラムが実施される場所に、木の棒とシンプルな台という商売道具を持っていきます。通常、立ったまま物語を語るナッガールの前に、若い男の子、あるいは、ナッガールの友人、または彼の後を継ぐ予定の人が座ったまま歌を歌います。その後で、ナッガールが台の上にのぼります。台の上に自由な空間がない場合には、ナッガールは人々の輪の中に立ちます。ナッガールは最初、祈りを捧げ、それから特別な木の棒によって物語を語り始めます。木の棒は、物語のリズムに合わせて動かされます。

ここからは、イランに伝わる物語をご紹介しましょう。前回に引き続き、インドの昔話ケリレとデムネから、4人の旅人のお話しです。

4人の男が旅の途中で知り合いになりました。ひとり目は王様の息子、二人目は商人の息子、三人目は容姿の美しい男、四人目は腕力の強い農民の男でした。4人の若者は皆、貧しく、それぞれが、日々の糧の稼ぎ方について自分なりの考え方や主義を持っていました。彼らは腹を空かせ、疲れ果てた状態で町にたどり着きました。彼らは町の近くに滞在場所を定め、毎日、4人のうちの一人が自分の主義に従って町に行き、友人たちのために食料を用意し、町の門の上に自分の意見を記していました。4日目は王様の息子の番でした。彼が待ちに行くと、ちょうどその町の王が亡くなったところでした。そして彼はスパイの容疑で捕らえられてしまいました。王様の息子は、自分のそれまでの人生を待ちの長老たちに語って聞かせました。町の長老たちは、彼こそ、その町の王の後継者にふさわしい人物だという結論に達しました。若い王は、町の門のところに、このように記すよう命じました。「理性も努力も美しさも、神の意志が伴ったときに初めて、意味を見出す。このたった1日で降ってわいたような私の幸福が、この言葉の証明だ」

こうして若い王は、友人たちを自分のもとに連れてくるよう命じました。そして彼らのそれぞれに、ふさわしいポストを与えました。それから、長老や学者たちを集め、自分と友人たちのそれまでの出来事や考え方について語りました。そして彼らは、すべてのことは神の手の中にあり、神の意志がなければ、最も賢い人間でさえ、何も手に入れることはないという結論に達しました。そのとき、集団の中から一人の老人が立ち上がって言いました。「あなたの言葉こそ、知性と賢さからくるものです。神の意志がなかったら、あなたが王になることはなかったでしょう。私の話を聞いてくださるでしょうか?」
ここからが、物語の続きです。

何年も前、私はまだ若かった頃、当時の長老の一人に仕えていました。私の青年時代は風のように過ぎ去り、少しずつ、世の中とは何とはかなく、価値のないものだと思うようになっていました。ある夜、このように考えました。「数千人の偉い人たちをも拒んだような世界に心を奪われるとは。機会があるうちに我に返るのだ。人間の生涯は短いものだ」 こうして私は、それまでの仕事をやめて礼拝に勤しむようになりました。ある日、市場を歩いていると、2羽の鳥を手に、買い手を探す漁師を見かけました。私は2羽の鳥を救いたいと思いました。そこで、鳥たちの値段を尋ねました。漁師は2デルハムだと言いました。私がそのとき持っていた金も、ちょうど2デルハムでした。もしその2デルハムを彼に払ってしまえば、自分のもとには何も残りません。どうしたらよいのでしょう? 心の中では、一方で「買わない方がいい」と思いながら、その一方では、「2デルハムを払ってそれらを買えばよい。偉大なる神が日々の糧を与えてくれるだろう」と考えていました。

私は鳥のために心が痛みました。そこで、思い切って鳥を買いました。そして鳥かごの扉を開け、彼らを逃がしてやることにしました。しかし、誰かが2羽の鳥を再び捕まえてしまうかもしれないと不安になりました。そのために、私は町のはずれまで行って、緑豊かな草原で2羽を解放しました。鳥たちは嬉しそうに木の枝に止まり、さえずっていました。そして鳥たちは私に感謝し、こう言いました。「本当にありがとう。あなたは、なけなしの2デルハムで私たちを買ったと思わないでください。あなたは2羽の鳥をかごから解放し、私たちに自由な生活を与えてくれました。この恩を返すには、いくら宝物があっても足りないでしょう。今、私たちには、この木の下に大きな宝物が埋まっているのが見えます。さあ、そこの地面を掘って、宝物を持っていってください」

私は心から驚いて言いました。「あなたたちは地下にある宝物が見えるのに、どうして漁師の罠に捕まってしまったのでしょう?」 すると、2羽のうちの片方が言いました。「神がお望みになったのです。私たちを罠に陥らせ、宝物を見通せる力が、神の英知であり、意志であったのです」  私は言われたとおりに地面を掘り、宝物を見つけました。私は、それ以上、現世の富を必要としないほど金持ちになりました。しかし、再びそれに汚れてしまいたくないと思いました。そこで、宝物をそこに隠しました。もし王がお望みであれば、それをここに持ってきます。 若い王は言いました。「いや、その宝物はあなたのものだ。あなたはそれによって、善の種をまいたのだ。もし本当に宝物が必要ないのなら、ここに持ってきて、貧しい人々のために費やすがよい」 こうして、4人はそれぞれ、神の望みによってそれぞれの幸福に至りました。彼らは、神の望みこそ、最高のものであり、神の運命は神の手にあるということを悟っていたのです。

Add comment


Security code
Refresh