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2015/11/21(土曜) 18:48

ナーセル・ホスロー(6)

ナーセル・ホスロー(6)

前回までの番組でお話しましたように、ナーセル・ホスローは大変若い頃から宮廷に仕え、そこで過ごしてきました。43歳のとき、ある夢を見たことで、精神的な変化を遂げました。その後、宮廷を去り、禁欲生活と崇拝行為、哲学・思想における教育活動を行いました。ナーセル・ホスローはシーア派の一派、イスマーイール派への思想的傾向を持っていたことから、多くの敵や反対者がいました。このため、彼は困難な生活を送っていました。彼は安らぎを得るため、現在のタジキスタン、バダフシャーンのヨムガーン渓谷に赴き、そこで15年間過ごす中、多くの作品を記しました。


ナーセル・ホスローによる韻文形式の最も重要な作品は、彼の詩集であり、数回にわたり印刷されています。また、訓戒や哲学に関する『光の書』と、『幸福の書』の2つの脚韻のある韻文形式の詩は初期の作品であり、いずれも出版されています。
ナーセル・ホスローの詩集は1万1千行を少し超える分量の詩集です。もっとも、これだけが彼自身の詠んだ詩の全てではありません。このことを裏付けるものとして、彼の詩集には出てこないものの、数多くの資料の中でナーセル・ホスローのものだとされている多くの詩の存在が挙げられます。ナーセル・ホスローの詩集は、彼の人格や精神の調査ための最も重要な資料とさています。
説話詩『光の書』は592行、『幸福の書』は300行の詩が記されており、その中心的な内容は忠告と説教です。イラン近代の偉大な詩人、マレコッショアラー・バハールは自著『形式論』の中で『幸福の書』について説明し、これはナーセル・ホスロー・シャリーフ・イスファハーニーという、ナーセル・ホスローの300年ほどあとの時代の人物によって記された作品で、ナーセル・ホスローのものではないとしています。一方、ほかの研究者は、この作品の執筆者はナーセル・ホスローだとしています。『幸福の書』は、1880年にファグナンという人物によってフランス語に翻訳され、ドイツ東洋協会で出版されました。また、『光の書』についても、散文形式のものが残っており、1949年にイワノフという人物によってロンドンで出版されました。
ナーセル・ホスローは主要な文学作品や、韻文形式の作品だけであっても、作品を執筆する中では、形式の点で、内容の点で、新たな創造を行う芸術家です。彼の詩はすべて、ナーセル・ホスローが考えていた思想を反映しています。このため、彼の詩は、社会に対する責務を負っている詩であり、作者である彼自身も、その影響を知っていたのです。
ナーセル・ホスローは、トルコ系勢力とデフガーンと呼ばれる、昔からイランに住んでいた人々がイラン文明の中で混ざり合った時代の良心ともいうべき人物です。彼はペルシャ語文学におけるもっとも勇気ある、明白な反骨思想をもった代表者であり、彼をペルシャ語文学における学術的、神秘主義的な詩の先駆者とすべきなのです。ナーセル・ホスローは偉大な人物であり、正確に自分の言動を一致させた見本です。また、悠久の歴史を持つイランの文学が常に関わってきた、嘘や欺瞞と衝突するという戦いを始めた人物の一人です。
多くの哲学や説教を含めているのは、ナーセル・ホスローの詩の主な特性であり、彼はこれを行うに当たって、彼以前の詩人であるキャサーイー・マルヴズィーに従っています。ナーセル・ホスローの幼かった頃は、マルヴズィーの晩年にあたり、マルヴの宮廷に出仕していたとき、マルヴズィーの名前は、いまだに文学者や知識を持つ人々の間の話題になっており、彼の詩は名声を博し、広まっていました。あきらかにマルヴズィーの詩は、雄弁な言葉、対句の音の響き、自然描写における緻密さにおいても、当時の為政者たちに対する批判や説教への関心においても、ナーセル・ホスローに影響を与えています。このため、ナーセル・ホスローは哲学者、禁欲主義者の思想の観点から、また表現様式においてもその影響を受けており、彼の句の多くに返答しています。ナーセル・ホスロー自身もこの影響を認めており、常にマルヴズィーを参考にしているとしています。しかし、この2人の詩人と彼らの作品の間には質的に大きな違いも存在します。ナーセル・ホスローの詩はしばしばその美しさ、繊細さによる栄誉を受けていますが、マルヴズィーの詩は、粗野なことで知られています。
ナーセル・ホスローは間違いなく大変優秀なペルシャ語詩人の一人です。彼の詩は力強い言葉、貴重な形式、特質、雄弁な表現を自然な形で持っています。研究者によりますと、彼の言葉の力強さはサーマーン朝末期の詩人の言葉に近く、ガズナ朝の初期の詩人の言葉よりも大変古いということです。彼の『詩集』における多くの単語や構成は、10世紀後半から11世紀のはじめにかけてのイスラム暦4世紀後半において広く使われており、ナーセル・ホスローの時代における要素は、何の影響も与えていないようです。一方、ナーセル・ホスローは、必要な場合にはいつでも、サーマーン朝時代末期に流入した量よりも多くの、アラビア語の語彙や熟語を使っています。
ナーセル・ホスローが精神的変化を経て、イスマーイール派に帰依するようになったあと、彼はホラーサーン地方におけるイスマーイール派の布教活動の責務を負うようになり、宗教的思想という新しい要素が彼の詩の中に加わりました。この詩人のメッセージにより、宗教的な思想を説明する中で、彼は宣教師のように常に布教活動について考えたと思われ、このため彼の一部の句は、序の部分と結末において、たいていの場合、布教における言葉のようになっています。
哲学の問題を語る中で、ナーセル・ホスローはさまざまな専門用語を使用するのを躊躇していません。研究者の見解によると、彼の詩における学術的な問題は含みがないだけでなく、彼の教えと宗教信仰を理解する手段となるということです。つまり、ナーセル・ホスローは常に論争の対象となっていた哲学の重要な問題を詩の中に提示し、難しい詩の言葉の中でその問題を完全に簡単に結論付けています。彼の学術思想により、彼は自分が意図する内容を語る中で、論理的な形式の影響を強く受けています。彼の言葉には類推や論理的な理由を伴っており、また理性的な結論付けも多く、このため、作者の興奮や微妙な空想は、彼の詩には存在しません。
基本的に、ナーセル・ホスローはほかの詩人を魅了したもの、つまり美しさや装飾、偽善的な側面に対して何の関心も向けておらず、彼は主に理性的な真実や宗教的内容、宗教信仰について考えていました。このため、自然描写をも、論理的、学問的な命題に入るための導入部として使用しているのです
ナーセル・ホスローは宮廷詩人ではなく、またもしそのようなときがあったとしても、その時代の彼の作品は、現在残っていません。彼は戒律や説教を語る中で、完全なマスナヴィー形式の詩を作りました。彼の詩の句は、その思想からまったく遠ざかっていません。彼は自分の言葉について、「自身の高価なダリー語の言葉を、豚の足元に撒き散らすことはしない」とし、また現世と世俗的な人々への執着を断ち切っていたため、預言者ムハンマドとその一門のために尽くし、現世を考慮しませんでした。
ナーセル・ホスローの時代、自然描写は広く行われており、その時代の詩集は、春と秋の描写に関して、曇の厚い空、花で満ちた庭、鳥の園、青々とした山、といった表現を行っていました。マヌーチェフリーやファッロヒーのような詩の大家は、これをより華やかに表現しました。一方、ナーセル・ホスローはこういった表現に関して、独自の地位を有しています。彼の描写はその修辞法や、注意深い哲学、芸術的な能力により、驚くべきものとなっています。興味深いのは、ナーセル・ホスローが、現世を空しいものとみなす哲学を持っていたにもかかわらず、春や花、自然への愛を軽んじていたことです。しかし、自身は自然の美しさに魅了されており、自然描写に関してほかに類を見ない詩人となっています。特に、精神的な表現を含めた空の描写に関して、太陽や星星の美しさにより、詩人を魅了し、「青いドーム」とか「光り輝く星星」という表現を多くの詩人が使っており、その表現のいずれも類を見ないものとなっています。

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