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2015/11/23(月曜) 20:59

イスラム的な生活様式における好みや嫌悪

イスラム的な生活様式における好みや嫌悪

今回も前回の続きとして、イスラム的な生活様式における好みや嫌悪についてお話することにいたしましょう。前回のこの時間は、人間は誰でも自分を見つめることで、愛や優しさ、憎しみ、嫌悪感が存在することに気づき、人間の行動や状態の全ては何かをしたい、或いはしたくないという傾向によることについてお話したしました。実際に、意志による任意的な行動の源になっているのは、この内面的、精神的な意向なのです。


イスラムの見解では、神が全ての美と完璧さの集合体であることから、イスラム教徒はこれらの源泉が神にあると考えており、神に最大の愛を注ぎます。このことから、イスラムの基準によれば、何かを歓迎する、或いは回避するかは神のためでなければ成らず、その他の愛情も神の愛を中心としたものでなければなりません。明らかに、イスラム的な生活において物事の好き嫌いが宗教的な様相を帯びてくれば、何かに近づくこと、或いは断ち切ることも宗教的なものとなります。この場合、人間の行動は宗教的な行為という枠組みに沿ったものとなり、神の満足を得る下地が整います。

イスラムの預言者ムハンマドは、心から神を愛するべきであると述べています。このことは、ある人にとって神が最も愛する存在でなければ、他の人々を愛することは神の目から見ると純粋な愛とは言えないことを示しています。神を愛する人になれば、その人も神から愛されます。イスラムの伝承では、人間と神の相互の愛情や優しさについて、次のように述べられています。「私は、私を愛してくれる人の友人であり、私と対等に話し合いが出来る人の話し相手であって、私の思いを分かってくれる人と親しくなる」
このことから、イスラム的な生活様式では、何かを好むか嫌うかにおける最も重要な基準は神となっています。神に対する愛は、人間の生活様式に方向性を与えます。好みや愛を向ける判断基準が神であれば、敬虔な人間は神への愛と信仰心というプラスの行動の方向性と、偶像や圧制者を否定するという方向性を持つことになります。このことは、イスラム教徒が唱える「アッラーの他に神はなし」という、神の唯一性を示すスローガンにも現れています。唯一神を信じる人間は、このスローガンにそってまず、偶像を徹底的に否定し、唯一神に信仰を寄せるのです。

このため、敬虔な人は誰でも、神を信じ、偽りを否定しなければなりません。真理と虚偽を同等と見なし、これらを区別しなければ、イスラム教徒ではありません。神とその預言者、そしてその一門を愛しておきながら、一方で真理を否定し虚偽に走る人々と仲良くすることはできません。啓示の教えによれば、人間の社会的、政治的、行動面での判断基準は、イスラム教徒と友好関係を持ち、彼らの敵を遠ざけることであると定義されています。これについて、コーラン第59章、アル・ハシュル章「集合」、第10節では、宗教上の兄弟と友好関係を築くことについて次のように述べられています。
"主よ、私達と、私達より前に信仰心に目覚めた兄弟たちを御赦し下さい。私達の心に信仰心ある者に対する恨みが沸かないようにしてください。誠に、主は、慈悲深い方であられる"
コーランのこの節によりますと、敬虔な人間の心においては、宗教上の兄弟に対する恨みや敵対が存在する余地はありません。コーランはイスラム教徒たちに対し、嫌悪することを避けるよう求めると共に、宗教上の兄弟に対する敵意を払拭し、互いに対する敵対心や怨恨が残らないよう神に求めるべきだとしています。これは、信徒たちの間での敵意や嫌悪感の発生を防ぐ方法の1つです。
シーア派6代目イマーム・サーデグも、ある伝承において次のように述べています。
「イスラム教徒は、イスラム教徒の兄弟であり、彼を抑圧したり、放置したり、脅迫したりすることはない。イスラム教徒は、恵まれない人との関係を築き、協力し親切にするよう努力し、互いに親切に振舞うべきである。互いに親切に振舞うべきだとする神の言葉に基づき、彼らのいないところでは彼らを気にかけるべきである。これは、預言者ムハンマドの時代に彼の教友たちがそうであったのと同様である」

イスラムの倫理的、教育的な戒律が重視し、努力していることは、イスラム教徒を対立から遠ざけ、社会における博愛の精神を強化することです。もっとも、これほど多くの対策が考えられているにも関わらず、時には嫌悪感や誤解、対立が生じる可能性もあります。信徒たちが誘惑に負けることで、悪魔が彼らの間に対立を生み出し、友情を憎しみに変えてしまう例は数多くあります。これについて、ある伝承では次のように述べられています。
「もし、あなたと誰かの間で、憎しみや諍いが生じても、その状態を3日以上続けてはならず、3日後には和解すべきである。2人の信徒たちは、互いいがみ合ってはならず、一刻も早くこの憎しみを寛大さ、或いは他人の仲裁により解消しなければならない」

一方、コーランの多くの節では敵を嫌悪することについて明らかにされています。例えば、コーラン第58章、アル・ムジャーダラ章、「抗弁する女」第22節では、次のように述べられています。
"あなた方は決して、神と最後の審判の日を信じていながら、神とその預言者の敵の友人になる民を見ることはない。仮に、そうした人々が彼らの父や兄弟、親戚であったとしても。神は、そうした人々の心の中に信仰心を刻まれた。神は、彼らに満足し、彼らもまた神に満足している。彼らは、神を信じる人々であり、彼らが勝利すあることを知るべきである"
コーランのこの節は、敬虔な人々に対し、イスラム的な生活様式では神とその敵への愛が共存することはなく、このうちのいずれかを選ぶべきであることを教えています。本当に敬虔であれば、神の敵と友達になってはなりません。さらに、神とその敵の両方と親しくする人は、信仰心が弱いか、または偽善者だということになります。このため、信仰心のある人は、他人に神の愛以上のものを容認せず、自分の家族や親戚と仲良くする際であっても、神と敵対しないことを基準にしています。このことから、論理なくして愛すべきではないことが明らかにされています。それは、神への愛に反対し、神に従う道に障害物を置くようなものなのです。

数多くの伝承においても、愛すべきものと嫌悪すべき物事に関して、多くのことが奨励、強調されています。例えば、預言者ムハンマドは、次のように述べています。
「信仰心がもたらす最大の効果は、神のために愛し、敵とすること、そして神の預言者一門の側につき、神の敵を嫌悪し遠ざけることである」
多くの伝承やコーランの節からは、他人との友人関係が、神との友好関係によるものでなければならないことが分かります。もっと広い見方をすれば、神との友好関係は2つの種類があります。1つは肯定的なもので歓迎し受け入れるべきものであり、もう1つは否定的なもので、宗教の教えでは回避すべきものとされています。
この2つをもう少し広く、より奥深く定義づけるならば、1つ目は敬虔な人間が神とその預言者、そして預言者一門を愛すべきであるのみならず、それらを監督者にするべきであることを意味し、2つ目は悪魔とその子孫、そして偶像を敵と見なし、これらを遠ざけるべきであることを意味します。

最後に、次のことをお話しておきたいと思います。イスラム的な生活様式では、神と宗教的な価値観が何かを歓迎すべきか、嫌悪するべきかの基準になれば、美徳を備え、醜さを遠ざける下地を作り出しす。神の預言者一門に親しんでいる人々は、宗教的な理想に至るために努力し、好ましい人物を模範にすることで、次第に醜悪なものから距離を置き、好ましい人々や理想に近づいて、好ましい特徴を見出すのです。イスラムは、社会における人間関係に宗教的な配色を与えることで、他人への愛情を1つの宗教的な行為を見なしており、このようにして敬虔な人々の間に親密な関係が生まれることに努力しています。神の道において形成される友情は、神に従うことや神の満足を基盤としており、よりしっかりとした恒久的なものなのです。

 

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