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2015/11/23(月曜) 21:29

「神を知ること」(3)

「神を知ること」(3)

前回の番組では、神に関する最も重要な真実は神の唯一性であることをお話しました。一神教の原則もまたこの真実を物語っています。一神教について最も良く知られているのは、神の性質が唯一のものであり、他に同種のものは存在しないということです。これまでの番組では、神の唯一性を証明するために幾つかの例を挙げました。私たちが創造主の性質を知ろうとすれば、ある理解が必要となり、それは私たちの手には届かない、言葉では説明することのできないものです。なぜなら私たちの理解力には限界があるからです。こうした中、私たちは神の性質を少しでも知るために努力しているのです。

 

神が唯一の存在であることのもう一つの理由に、神が無制限の存在であることが挙げられます。これについて、「創造物はすべて制限のある存在物である」ということが言えるでしょう。すべてのものに制限があるということは、ある場所でその生命が尽きるということを意味します。例えば、人間の寿命が120歳だとすれば、それはこの寿命が尽きた後、人間の人生は存在しない、ということを意味します。しかしながら、ある存在物があらゆる制限から免れ、どんな制限も受け入れないのであれば、それは無制限の永遠の存在となります。なぜならその中には、時間や場所のように制限の原因となるものが存在しないからです。神という存在が無制限であることに注目すると、おのずと神の唯一性が証明されます。なぜなら創造世界において二つの制限のない存在を想像することはできず、無制限の存在は複数であることはありえないからです。もし神が複数の存在であることを認めるなら、神に対して時間や場所などの制限を認めるべきでしょう。明らかに場所に含まれる存在物は場所を必要とし、時間に含まれる存在物は時間という特別な状況を必要とするでしょう。一方で神に制限はなく、境界線は一切ないのです。

言い換えれば、時間や場所、その他の制限に囚われない存在物を見つけようとするなら、この至高なる真理に対して二つの存在を想像するのはありえないということです。例えば、生命の世界に制限がなく、どこにでも行けますが、最終地点には達しないとしましょう。こうした場合、この世界の傍らに他の世界を想像することができるでしょうか。その答えは否です。創造世界のすべてにおいて神は存在し、神の存在しない場所も時間もないことから、神と同じような他の存在物を想像することは不可能なのです。このことから、神の唯一性は決して他の神を想像することはできないということを意味しているのです。

神の唯一性に関して思想家が挙げている別の理由は、神の性質は部分で構成されていない、つまりこの世の物質のように、様々な部分から構成されていないということです。それは原則として部分を持たない存在です。神の性質が部分を組み合わせたものであったとしたら、自らを構成している部分を必要とするでしょう。このため学者は、組み合わせとは必要性の現われであり、世界で自ら以外のものを必要とするような神が、生命の源であることはできず、むしろほかの存在によって作られた被創造物となってしまうとしています。このような他の存在を必要とする存在物はもはや神ではなく、神の性質はこのような問題から離れているのです。

神の唯一性について述べていたことに注目すると、イスラムの世界観の基盤には、創造主と生命の管理者が唯一の存在であり、世界にいかなる種類の仲間も持たない、という原則があります。イスラムの唯一神信仰の見解から、キリスト教の考え方である三位一体は否定されています。

歴史資料によれば、キリスト教徒はイエス・キリストが誕生した200年、あるいは300年後まで一神教でしたが、後に他の思想や宗教の影響を受け、さらにはキリスト教会の指導部の思想的逸脱により、多神教思想がキリスト教の社会に広まり、彼らは父と子と聖霊は一体であるという三位一体の考え方を持つようになりました。神はコーランの数多くの節で、はっきりと三位一体の考え方を否定しており、神の唯一性を強調しています。コーラン第5章アルマーイダ章、食卓、第72節には次のようにあります。
「彼らは言った。神はマルヤムの子マスィーフであると。彼らは確かに不信心者である。(しかも自身で)マスィーフは言った、イスラエルの民よ、私とあなたの神である(唯一の)神を崇拝せよ。確かに神に同輩を置く者に、神は楽園を禁止され、地獄に送られる。圧制者には一切援助者はいない」

神の唯一性は神の3つの性質と同時に、三位一体の理論を矛盾に直面させ、その理解を困難なものにしています。非イスラム教徒の思想家が三位一体は証明できないものであるとしているだけでなく、キリスト教の神学や聖書もが三位一体の理論を根本から否定し、神の唯一性を指摘しています。イエス・キリストの発言は、三位一体とは考え方が明らかに矛盾しています。例えば、キリスト教の聖書、ヨハネによる福音書にはこのようにあります。「キリストは言われた。『永遠の命とは、(人々)あなたを(生命の)唯一の神とあなたが遣わされたイエス・キリストについて知らしめるもの』」
また、別の箇所ではこのようにあります。「イエスは奇跡を起こそうとするとき、祈りのために手を掲げ、神に対して助けを求めていた」
さらに、マルコの福音書でも、「イエスは人々を唯一信仰に呼びかけ、言う。我々の神は唯一の神である」とあります。

イスラムの聖典コーランの節でも、イエスはマリアの子であることが強調されています。数多くの節は、唯一神の存在により、三位一体、父の神性、イエスが神の子であるといった原則や、神が子どもを持つといったことを否定しています。コーランはイエスは神によって創造された存在であるとし、彼の創造は預言者アーダムの創造と同じものだとしています。また別の節では、イエスの特徴の多くをはっきりと語っています。これらの節は、イエスを完全に人間の特徴を持ったものとし、決して神性に一致するものではなく、預言者以上のものではないとしています。コーラン、アルマーイダ章第75節には次のようにあります。
「マスィーフはマルヤムの子であり、使徒以上のものではない。彼の前にも預言者たちがおり、その母もまた非常に誠実で正しい人だった。どちらも(他の人間と同じように)食べ物を食べる。こうした中でマスィーフの神性をどのように主張することができるのか」

この節では神は、イエスを神ではないとする3つの根拠を挙げています。一つは彼がマルヤムという女性から生まれたこと。二つ目は彼と同じ預言者たちがかつており、彼は唯一無二の存在ではないこと。そして最後に彼もまた他の人と同じように食べ物を食べ、それからエネルギーや活力を得ていることです。このため、特別な力を持たず、彼は神ではなく、神のように何かを創造することはできないのです。

コーラン第4章アンニサーァ章、婦人、第171節では、イエスは神の使徒であり、神は子を持たないということが指摘されています。コーランの解釈者はこの節について、次のように述べています。「神性の地位にあるものは、子を持たず、他の存在物にも似ず、一致しない。基本的に子孫を残すための生産活動は、人間の一部ニーズに応えたものだ。一方で神は絶対的に独立し、天や地にあるあらゆるものは神に属し、すべての世界の存在物は神を必要としている。神が配偶者や子を決して必要としない中で神が子を持つことなどできるだろうか。神は天と地の所有者であり、すべての存在物は彼の創造物であり、イエスもまた彼の創造物の一つなのである」

神は創造主であり、存在物の所有者、彼らを守り、糧を与えるものです。原則として、永遠の存在であり、すべての存在物の保護者である神が子や仲間を必要とするでしょうか。加えて、神の無限の性質が人間の枠組みの中で明らかにされ、肉体や場所、食料や衣服その他を必要とするでしょうか。永遠の神を一人の人間の肉体に制限すること、また様々な肉体的要素を必要とする子を神に関連付けることは、完全に非現実的で、非論理的なことなのです。

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