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2015/12/08(火曜) 21:32

女性問題とこれに関するイランの映画監督のアプローチ(1)

女性問題とこれに関するイランの映画監督のアプローチ(1)

これまでの番組では、イランの映画監督をご紹介し、その作品をテーマや重要性に沿って検討してまいりました。今回からは、イランの社会派映画の分野で、制作者の注目を集めている重要なテーマのひとつを取り上げ、お話してまいります。これに関しては数多くの作品が作られています。今回は、女性問題とこれに関するイランの映画監督のアプローチについてお話しすることにいたしましょう。

 

世界の社会、文化、科学、政治など、様々な分野での女性の参入の歴史を振り返って見ると、イラン人女性の現在の各分野への参入は、現代世界の暗闇に対して驚くべき成功であるだけでなく、少しずつ一つのモデルに変化していることがわかります。明らかに、こうした成功は唯一、イスラム革命の出現によるものです。この革命は、自由と独立を手にしようとするイスラム教徒の国民に影響を与えています。例えば、イスラム革命勝利前後の女性の存在を評価するなら、勉学、社会参加から、科学や芸術の分野での創造性や革新まで、彼女らの躍進は累進的に拡大している、と言えるでしょう。

映画という芸術は、文化的、社会的な事柄と切り離せるものではありません。イラン人女性は今日、こうした分野のすべてにおいて重要な役割を担っています。イラン映画の120年の歴史を振り返って見ると、多くの映画において、女性問題が扱われているにもかかわらず、社会における女性の姿を正しく映し出している作品はほとんど見られません。イラン映画における女性の参入は実際、1932年の『映画俳優・ハージーアーガー』から始まりました。この映画では、主人公ハージーアーガーの娘が映画監督と結婚しようとします。ハージーアーガーは映画に反対し、娘の結婚を阻止します。映画監督は町のあちこちで隠れてハージーアーガーを撮影し、彼に映画というものを教えます。この映画で演じているイラン映画初の女優は、アースィヤー・ゴスターニヤ―ンというキリスト教徒の女性で、1950年代に数多くの映画に出演しました。

イランのモハンマドレザー・パフラヴィー政権時代、国の社会的、文化的構造は、大きな変化に見舞われました。急進的な近代主義者と革新主義者が、女性の表面的な自由に基づく政策の実行に乗じ、こうした政策により、社会の一部の女性の生活に基本的な変化が生じました。社会の伝統的な信条との対立がこの最大の変化の一つで、テレビや映画といったメディアや政府によって広められていました。イスラム革命前には、イランの映画制作者の多くが、女性を流行の先駆者、表面的な革新者として示すことで、観客を呼び集めようとしていました。それらの作品の中の女性は、人間としてのアイデンティティを持たず、女優の選出においても、演技力にそれほど重点は置かれていませんでした。当時の映画の中の女性は家にいる人形か、あるいは腐敗した集まりの中にいる人形のようなものでした。60年代のイラン映画は外国の映画と競争するために、伝統的な秩序からできるだけ離れ、西洋の映画に歩調を合わせていました。外国映画の観客の多くが中産階級であり、イラン映画の観客はそうした映画を好んでいました。このため、イランの映画制作者は西洋映画を真似た作品を作り、ダンスや歌、倫理に反する関係などを映画の題材に扱ったのでした。社会の変化、社会の伝統や倫理の基準の変化により、非伝統的な女性、つまり現代的な女性が肯定的な存在として提示され、様々な方法で、そうした女性がモデルとされるようになりました。

その当時、女性を中心にしたイラン映画は、悲痛な物語か、面白おかしな物語か、非道徳的な物語でした。実際、女性はこれらの映画の中で、弱い存在であったり、性の奴隷であったりし、男性による女性の救済が主なテーマとなっていました。パフラヴィー王朝の末期、数多くの映画館が開設され、人々は映画を鑑賞するようになりました。「フィルムファールスィー」とは当時の批評家が価値のない低俗な映画につけていた名称で、こうした映画の制作は、儲かる簡単な職業として提示されるようになりました。とはいえ、この時代には価値ある作品も幾つか作られています。しかし、宣伝も支援もなかったため、それほど観客は入らず、映画制作の一つの流れの形として現れることはありませんでした。

1973年から、イランで映画が興業的な失敗に直面したことで、再び女性が引き出されることになりました。この時代の映画の女性は、次第に家族から離れ、犯罪といった負の役割を果たしていました。また、映画の女性がついていた職業は、主に、売春婦、歌手、エンターテイナーでした。しかしながらこのような状況は長くは続かず、イランの気高いイスラム教徒は、こうした腐敗に我慢がならず、腐敗を広めたなど様々な理由で、王政の中央機関に対して立ち上がりました。政治、経済面での依存への抗議、そして何より、外国の文化への追従に対する反対は、1978年と79年の革命運動における人々の最大の動機でした。ホメイニー師の導きと人々の団結によって革命は勝利し、イランは外国への依存と囚われから解放されたのです。

イスラム革命の勝利後、ホメイニー師の導きは、芸術と文化の道、特に映画を繁栄させることになりました。明らかに、ホメイニー師の明らかな導きは、イラン人女性の地位を高め、イランの女性を世界で最も忍耐強く、責任感があり、専門性を備えた女性の列に並べました。女性とその影響力はホメイニー師やその後継者であるハーメネイー師の見方において、特別な地位を有しており、これはイスラムにおいて女性に与えられた高い地位のためでしょう。このため、ホメイニー師と最高指導者のハーメネイー師は、常に女性に対して特権を考慮し、女性の美しさや価値、家庭や社会におけるその建設的な役割について語っています。ホメイニー師は、女性はイスラム革命において男性の先に立ち、運動の形成と継続における模範となっているとしました。このことから、科学、教育、社会への貢献、選挙への参加、文化的活動に関する機会はすべて、イスラム革命勝利後に、社会におけるイラン人女性の積極的かつ効果的な存在に特別な注目が寄せられていたことを示すものです。

こうした社会への女性の積極的な参加により、映画の中でも女性の真の姿が描かれるようになり、家庭の柱としての女性の尊厳、人間としての威信と地位に注目が寄せられました。イスラム革命後の数年間、映画制作者は作品の売り上げを伸ばすために、女性を道具として使用するのではなく、過去の堕落した流れを徹底的に償ったのでした。革命後の映画の歴史を振り返って見ると、最初の数年間は完全な後退が見られ、女性が重要な役割を担うような映画はほとんど見られませんでした。しかしながら映画制作に関する法規が制定されると、再び女性は映画に登場するようになり、人々の中にイスラムの文化や思想が広まるにつれ、女性たちはこうした専門的な役割に向かうようになり、多くの映画の主要な要素となりました。

ラスール・サドル・アーメリー監督の『キクの花』といったメロドラマの制作により、女性たちは次第に映画の中に登場するようになりました。とはいえ、こうした存在は非常に影が薄く、女性たちは多くが脇役を演じていました。しかしその数年後、イラン映画における女性の役割が変化し、その時から、映画の中の女性に関する描写が現実に近い形をとり始めました。こうした映画が提示している女性の人格は当然、文化や思想を持った人々や社会が望むものであり、これは一般にも受け入れられ、国内や世界レベルでもイランの現代芸術のふさわしい代表作となっています。

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