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2015/12/08(火曜) 22:45

「神を知ること」(4)

「神を知ること」(4)

イスラムの聖典コーランは、世界の唯一の創造主を最も至高な言葉で褒め称えています。専門家は、コーランや言い伝えをもとに、神の性質を幾つかの種類に分けています。

 

一つ目の性質は、その性質によって褒め称えられ、永遠にその中に存在する性質です。神は生きており、全知全能であると言うことができます。神はすべての事柄をお見通しで、それらを整えています。二つ目に、神の性質がどの点からも完全なものであることから、不足や必要性を示すすべての性質から免れていることが挙げられます。神は物質ではなく、目に見えず、それに類するものは存在しません。そして、三つ目は、神による措置の後に、それを神に関連付ける性質です。神は創造主であり、糧を与える存在です。

これまで最も重要な神の性質の一つである神の唯一性についてお話してきましたが、今夜の番組では、神が目に見えない存在で肉体を持たない理由についてお話しすることにいたしましょう。この話題に入る前に、私たちは通常、五感を使って周囲の物や現象を認識しているということを指摘しておきましょう。しかし、存在物の領域は私たちの感覚が理解できるものに限られません。私たちの生活環境においては、目に見ることのできない、感覚の領域を超えたものが存在します。例えば引力は目に見えないものですが、その影響を見ることが出来ます。生命、子どもの対する母の愛情、喜びと悲しみ、怒り、好きと嫌い、こうしたどれもが目に見ることができませんが、それらの痕跡によってその存在を理解することができます。

原因と結果、秩序と無秩序を目で見ることができるでしょうか。明らかに答えは否です。こうした中、指摘したすべてのものが存在し、私たちの生活に影響を及ぼしています。これにより、多くの物事は感覚の領域外にあるものだが、存在するということが言えるでしょう。神についても同様です。神が私たちの感覚で理解できない、私たちの感覚を超えているからといって、それを否定することはできません。なぜなら神の痕跡は天や地、星星などすべての創造世界の中で、また人間の存在の中で明らかであるからです。

科学の法則に従って、光が何かを照らす場合、その映像は網膜の中に映り、そこから脳へと伝達されます。そして人間はその映像を見ることができるのです。もし神が光の反射によって目に見える存在であれば、それは肉体があり、場所を占有しているということになります。なぜなら網膜は物体、あるいはその一部の成分だけを目にすることができるからです。もしこうした特徴がなければ、それを決して目で見ることはできないでしょう。一方で、物質や場所は、制限があり、衰退や消滅にさらされています。こうした中、神の性質は無限の永遠の存在であり、原則として肉体はありません。言い換えればあらゆる物体は結果であり、原因を必要としているのです。明らかに結果であり、物質と場所を必要とする存在は神ではありません。神は物体ではなく、その中に物質的な影響はありません。このため目に見えないのです、コーラン第6章アルアンアーム章、家畜、第103節には次のようにあります。

「視覚は彼をとらえない。だが彼は視覚をとらえる。彼は優美で(明らかであり)(何よりも)見識がある」

シーア派初代イマーム、アリーも神が目に見えない存在であることについて、このように述べています。

「神を称えよ。その性質を感じることはできず、その場所が占められることもない。人々は彼を目にすることはないが、幕が彼を覆っているわけではない」

賢者たちが語った、この他の神が見えない理由は、「生命の世界において神よりも明らかな者は存在しない」というものです。彼らの説明によれば、神は世界のすべての場所に存在し、現われますが、それは目に見えません。神はすべての生命の光です。その光はすべての場所を照らし、沈んだりすることもなく、何よりも明らかな存在です。このため、世界でのその存在があまりにも大きいために、目に見えないのです。こうしたことから至高なる神はすべての生命の中に見られる徴によって知られています。私たちはあらゆる存在物の前で神の徴を明らかに目にすることができます。一人の画家や職人の芸術を、その作品あるいは技芸の具現の中に見るように、私たちは世界の神の創造物の中に神の力や英知の徴を目にするのです。

人間の目で見える神は実際、神ではありません。なぜならそれが時間や場所に関係のある制限のある何かを必要とする存在であるからです。神はすべての場所に存在し、世界のどこにおいても神が不在であることはありません。シーア派6代目イマームと同じ時代に生きていた物質主義の学者は、彼に対して、どのようにして見えない神を崇拝するのかと尋ねました。イマームは彼に言いました。「あなたの存在の中でその存在を示している人が、あなたにとって明らかでないはずはない」。イマームはその後、次々と神の徴を挙げていきました。この学者はこの後、友人に向かって言いました。「イマームは私の中に存在する徴を次々と私に挙げ、それらを私は否定することはできなかった。私はまもなく議論に負けると思い、話すのをやめてその集まりを去った」

コーランでは、はっきりと「神が見える可能性はない」と書かれています。しかし幾つかの節では、神に会うことについて語られています。神に会うという意味は、人間が互いに会うのと同じようなものではありません。なぜなら神は肉体もなく、目で見ることもできないからです。宗教の解釈者は、「最後の審判や報奨、罰、恩恵、許しの中に神の力を見るということは、一種の内面的な証明である。なぜなら人間は時に神を心の目で見るからである。それは人間にとって一切の疑いはない」と語っています。こうした状態は、この世界において、清らかさ、敬虔さ、禁欲によって生み出されるものです。歴史の中にはこのような話があります。

ある人がシーア派初代イマーム、アリーに尋ねました。「自らの神を見たことがあるか?」。イマームは言いました。「私は見えない神は崇拝しない」。その人は尋ねました。「どのようにして神を見たのか?」。イマームは答えます。「表面的な目では神を見ることはできないが、心は信仰の光によって神を感じることができる」

このことから、神との面会について語られているところでは、明らかに通常の視覚で神を見ることではなく、心の目で神を見ることを意味しているのです。とはいえこの中では誰もがその能力の程度に従って、神やその壮大さを目にするのです。

コーランは神が目には見えないことを明らかにするために、神を見たいとするムーサーの懇願の物語について語っています。この物語は第7章アルアアラーフ章、高壁、第143節にあります。

「そしてムーサーは我々の約束したときに来て、神が彼に語りかけられたとき、ムーサーは言った。「神よ、あなたを見えるように私に姿を示してください」。(神は)言った。「決してあなたは私を見ることはないだろうが、もしその場所に留まるなら、(あなたもまた)私を見るであろう。そして神はその山に(御光を)現し、山を破壊した。ムーサーは気絶して倒れた。そしてムーサーは意識を取り戻すと言った。「(神よ)あなたは(目に見える)不謬な存在だ。私はあなたに帰依します。私はあなたの第一の信仰者です」

神を見ることは実際、イスラエルの民の要請であり、彼らはムーサーに対して神を見えるようにしてほしいと頼みました。彼らは神は決して目では見えないこと、神は心の目で見なければならないことを知らなかったのです。いずれにせよ、コーランの節が指摘しているように、神を見る能力が彼には存在しないことをムーサーにわからせるために、神はムーサーの目の前の大きな山に光を現し、その山を破壊します。ムーサーはその威力に驚いて気絶します。彼は目覚めると、こうした自らの要請を後悔し、神を目で見ることはできないのだと認めるのです。

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