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2016/02/03(水曜) 23:09

欧米諸国の一般の若者たちに向けて(11)

欧米諸国の一般の若者たちに向けて(11)

今回は、過激派思想の根源について、最高指導者の書簡を取り上げながらお話しすることにいたしましょう。

 

イランイスラム革命最高指導者のハーメネイー師は、欧米の若者たちに宛てた二通目の書簡で、テロの根源と、その創設と強化における西側のダブルスタンダード政策の影響について語りました。ハーメネイー師はテロを西側とイスラム世界の共通の痛みだとし、西側のテロ支援を非難しました。ハーメネイー師はこのように強調しました。

「西側の政策にダブルスタンダードが占めている限り、テロリズムがその支持者によって良いものと悪いものに分けられている限り、政府の利益を人間的、道徳的な価値よりも優先している限り、暴力の根源を別の場所で探るべきではない」

最高指導者はこの書簡の中で、テロや過激主義は信条的な要因はないとし、このように語っています。

「もし問題が本当に信条的なものなら、植民地主義の時代の前にもイスラム世界にこのような現象が見られただろうが、歴史はそうではないことを証明している。歴史的に明らかな証拠ははっきりと、どのようにして、あるベドウィン族の中での植民地主義と、現在孤立している過激派思想の融合が、この地域に急進派の種を植えたのかということを示している。そうでなければ、一人の人間の命を奪うことは人類すべてを殺すことに等しいと考えている世界の最も道徳的で人間的な宗教の中からISISのような屑を出すことができるというのだ?」

ハーメネイー師はこの書簡の中で、西側のメディアのすべてが覆い隠そうとしている事実について強調しています。西側のメディアは現在、非現実的な解説や分析を提示することで、イスラム思想を暴力や過激主義の根源として見せようとしています、西側のメディアにおいて、ISISは「イスラム政府」「イスラミック・ステート」と呼ばれ、ISISのテログループの犯罪をイスラムと関連付けています。しかしながらISISやその悪しき犯罪はイスラムとどのような関係があるというのでしょうか?この問いはイスラムの教えのもとで育ち、人間の尊厳と命の大切さをコーランの中で読んできた人々にとって明らかな答えを有しています。その回答とは、「ISISのテロリストからはイスラムの香りは感じられない」というものです。

歴史が示しているように、宗教的、人道的なあらゆるグループの傍らには、常に、過激で極端な道を進むグループが存在してきました。とはいえイスラムもこの例外ではありませんが、他の宗教との違いは、イスラムではコーランという宗教書の内容の豊かさや改変されていない源のために、常に過激派はわきに追いやられ、力を持つことはなかった、ということです。ハーメネイー師はこれに関して、歴史は、どのようにして植民地主義とベドウィン族との出合いが過激主義的な根源を地域に根付かせたのかを示している、としています。この指摘を詳しく見ていくことは、テロの根源を探る上での助けとなるでしょう。

タクフィール主義のワッハーブ派の形成の歴史を見ることで、この問題を解き明かすことができます。イスラムが誕生してからおよそ400年、イブン・タイミーヤという名の人物が異端な宗教を広め、それによって多くのイスラム教徒が不信心者とされました。彼の過激な思想はムハンマドの真のイスラムの教えに反していたので、すぐにイスラム教徒や聖職者たちの大きな反対に直面し、消え失せました。しかし400年後、大英帝国の植民地主義がイスラム諸国を支配しようとしたとき、この思想は、イスラム教徒の間に根本的な亀裂を生じさせるために、再び息を吹き返したのです。

大英帝国はイスラム教徒の団結を、自らの覇権主義的な目的を妨げる最大の障害と見て、この統一を乱そうとあらゆる道を探りました。歴史が示しているように、イギリスはこの時代、スパイをイスラム諸国に送り込み、イスラム共同体を分裂させ、弱体化させるために、必要な情報を手に入れようとしていました。

多くのイスラム教徒は殺されるにふさわしいと考えていたイブン・タイミーヤの逸脱した思想は、400年後の植民地主義者にとって非常に注目に値する思想でした。ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブは、その当時、学がなく、切れやすい若者で、タクフィール主義という過激な思想に傾倒していました。彼の厚かましさ、学のなさ、強情さに目を付けたイギリスのスパイは、彼を、イギリスの植民地主義の目的を実現するための最良の駒とみなしました。彼らは様々な方法で、彼の思想や活動を誘導し、明らかにイスラムの教えとは反する異端な思想を強化することで、イスラム教徒の間の分裂を煽ろうとしたのでした。

ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブは逸脱したタクフィール主義思想のために、イスラム法学者や家族からも追放された後、イギリスの支援を受けて、ヒジャーズのダルイーヤの町に向かいました。その地にはラクダや羊の飼育にいそしんでいる砂漠の民が暮らしており、貧困にあえいでいました。この地の為政者であったムハンマド・イブン・サウードは、タクフィール主義思想によってイスラム教徒の部族やキャラバンから強奪することができると気付き、ムハンマド・イブン・ワッハーブを歓迎しました。一部の歴史家は、この地の為政者はイギリスから金をもらい、イブン・アブドゥルワッハーブと連帯を組まされたと考えています。

この連帯の後、イブン・アブドゥルワッハーブは、イブン・サウードとイギリスの資金や武器面での支援を受け、軍隊を結成し、イスラム教徒に対して多くの犯罪を行いました。イラク南部のカルバラを攻撃し、半日だけで少なくとも2000人の住民を殺害し、預言者一門の聖廟を破壊し強奪したり、メディナを攻撃したりしました。これらのサウード族の犯罪は、イスラムの土地に多くの恐怖を広めました。こうした犯罪の後、オスマン帝国が1818年にダルイーヤを拠点としたワッハーブ・サウード政府を攻撃し、彼らを敗北させました。

暴力的なワッハーブ派は1818年に消滅しましたが、すぐにイギリスの植民地主義の支援によって復活しました。1866年、ワッハーブ・サウード政府は大英帝国との友好協定を締結しました。大英帝国はその当時、その植民地主義的な犯罪により、すべてのイスラム教徒に憎まれていました。ワッハーブ・サウード政府は資金や武器を受ける代わりに、地域でイギリスの植民地主義者と協力することに同意しました。この契約は人々の不満を生じさせ、サウード族の二回目の消滅の下地を整えました。1891年、オスマン帝国が再びリヤドを攻撃し、サウード一族を消滅させました。そしてその後ラシード一族がサウジアラビアをおさめることになりました。

20世紀が幕を開け、アラビア半島での大英帝国の植民地主義戦略は即座にやり方を変更しました。大英帝国はオスマン帝国の完全消滅のために、クウェートに逃げていたワッハーブ派サウード家の存続を、それまで以上に支援することを決めました。1902年、大英帝国の資金・武器面での支援を受け、アブドゥルアズィーズがリヤドを完全に掌握しました。リヤド占領後に彼らが最初に行った行動は、反対者を公開処刑し、住民に恐怖を植え付けたことでした。ワッハーブ派は1200人の住民を焼き殺しもしました。

このとき、イブン・サウードという名前が西側で知られていました。アブドゥルアズィーズ王はイギリスのサウード家支援者の間で高い評価を得ていました。大英帝国の多くの関係者やそのアラブへの使節が彼と面会したり交流を持ったりし、寛大に資金や武器を彼に供与し、思想面での助言を行ったりしていました。イギリスの武器、資金、顧問を使用することで、アブドゥルアズィーズはアラビア半島の大部分をサウード・ワッハーブの旗の下に置きました。今日それがサウジアラビアとして知られているものです。

こうして植民地主義とベドウィン族の逸脱した思想が出合ったときから、イスラムのすべての宗派に対する過激主義や暴力主義は破壊的な流れに変わり、いつでも植民地主義の目的に仕えてきました。ワッハーブ派はイスラムの宗派の一つではなく、イスラム誕生後の800年、特別な目的のために作られ、支持されてきた逸脱したグループです。現在この危険な流れは、イスラム世界に対する犯罪と裏切りの数百年を経て、再びイスラムのイメージを破壊し、イスラム教徒を殺害するために、アメリカなど西側政府の支援を受けて信じられないような犯罪に手を染めています。西側の政府はイスラム教徒に対するテログループの犯罪に目をつぶりながら、西側でのテロ攻撃に対して懸念を表しています。次回の番組ではこれに関してさらに詳しくお話しすることにいたしましょう。

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