特別番組 http://japanese.irib.ir Fri, 20 Oct 2017 16:08:16 +0900 ja-jp 欧米諸国の一般の若者たちに向けて(14) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62699-欧米諸国の一般の若者たちに向けて(14) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62699-欧米諸国の一般の若者たちに向けて(14)

 

 

今夜の番組でも、この書簡の一部を取り上げてまいりましょう。ハーメネイー師はこの書簡の冒頭で、このように記しています。「フランスで無差別のテロリズムが引き起こした痛ましい出来事は、改めて私をあなた方若者たちとの対話に駆り立てた。私にとってこのような出来事が話をする機会を生じさせるのは遺憾なことだが、実際、もしこのような痛ましい問題が解決策を探る下地や共通の考えにいたるための手段を整えることがなければ、被害は倍増するだろう」

 

ハーメネイー師は欧米の若者たちに宛てた書簡の中で、テロに対する西側のダブルスタンダード、矛盾した政策を批判し、イスラムの目覚めの運動に対する西側のダブルスタンダードについて触れ、イスラエルの国家テロへの支援、地域のテロ支援者と西側の同盟、最近のイスラム世界に対する遠征を西側の政策の矛盾の例だとし、次のように強調しています。

 

「政府の利益を人間的、道徳的な価値よりも優先している限り、暴力の根源を別の場所で探るべきではない」

 

最高指導者は書簡の一部でこのように記しています。

 

「植民地主義の根源は長い年月をかけて、次第に西側の文化的政策の内部に浸透し、静かで穏やかな攻撃を整えていった。世界の多くの国は自らの民族の土着の文化に誇りを持っている。そうした文化は成長する中で、数百年の間、人類社会に十分に栄養を与えてきた。イスラム世界もこうしたことの例外ではない。だが現代において、西側の世界は最新の手段を用いることで、世界の文化を同じものにしようとしている。私は他の国民への西側の文化の強要と独立した文化への軽視は、非常に害のある静かな暴力だと考える。豊かな文化の軽視と、これらの文化の最も敬うべき部分への侮辱が行われている一方で、代替の文化は代替の能力を有していない。例えば、残念ながら西側の文化の基本的な問題となっている「暴力主義」や「道徳的退廃」により、この文化の地位をその発祥地においてすら低下させている。ここで次のような問いが沸いてくる。もし我々が好戦的で意味のない低俗な文化を求めなければ、もし芸術に似た産物としてわが国の若者に流入する破壊的な洪水を阻止すれば、罪を犯しているのか?」

 

これまでの番組では地域の過激派の形成に植民地主義政策が及ぼす影響、さらに他の文化に対する西側の静かな文化的攻撃、その結果についてお話しました。今夜は優位を主張している西側の文化と文明がどれほどその地位にふさわしいのかについて考えてみることにいたしましょう。

 

アメリカの哲学者ウィル・デュラントは、このように述べています。「文明には4つの基本的な柱が存在する。それは政治機関、道徳的慣習、知識や技術の習得における努力、経済問題における予測と用心である」。西側の現在の政治や経済の状況を注意深く見てみると、この二つの基盤が現在揺れ動き、西側の世界が有していた安定が現在はないことが分かります。欧米での差別や経済政策に対する街頭での抗議は、ここ数年激しさを増し、政府の負債の拡大は、西側の政治的、経済的衰退の警鐘を鳴らしています。こうした中、道徳はあらゆる文明の基盤であり、ここからはこうした点から西側の文明を見ていくことにいたしましょう。

 

現在の西洋文明は、おおよそ14世紀末期から始まった過程の産物です。この過程は、中世のキリスト教会の統治の終わり、人類史の新たな段階の開始から成っています。この文明の多くの部分は、中世の特徴に過度に反発したものを示しています。西洋の人々は人類の本能に矛盾する、キリストの改ざんした教義を提示していた教会に対し立ち上がりました。人間の知性や科学に対する教会の反対、金銭的、道徳的腐敗を伴う西洋社会に占める圧迫感は、西洋の歴史に暗黒の時代を刻みました。こうした教会の非合理的な行動は、宗教と関連付けられていましたが、それに対して、西洋の人々は神と人間の地位を区別し、それまで価値の置かれてきた多くのものが無価値なものに取って代わる時代を開始しました。

 

ルネサンス時代、人間の知性と科学に頼ることが誇張した状態をとっていました。西洋文明は新たな科学や技術を用いており、それは日々世俗主義的な新たな動機によって拡大し、次第に新たな市場、さらに原料を必要としました。この必要性は西洋人の注目を他の国に向けさせました。しかしながら西洋は技術や科学の頂点を極めたその速度と同じ速度で、道徳的逸脱や価値観の衰退の坂道を転がり落ちました。このため西洋が他の国に向かうということは、強奪や植民地化、道徳や人間性の境をなくすことを伴っていました。数百年前の植民地主義の恥ずべき歴史は、西側の他国の国民に対する非道徳性の例です。現在も、イラクのアブーゴライブやキューバのグアンタナモの刑務所の出来事は、西側の暴力主義の明らかな例とみなされています。

 

ルネサンス後の西洋の文化において、宗教や神の法規は居場所がありませんでした。いくつかの人間の道徳理念により、道徳における相対主義がこの新たな文化のものとして受け入れられるようになり、これは絶対的な善と悪は存在しないということを意味します。人間がすべての事柄の中心にあり、人間の望みは何においても優り、人間の要求に対して道徳の価値は失われました。個人の自由が最も優れた価値とみなされ、公正は影を潜めました。これは何物も、公正でさえも個人の自由を制限することはできないという意味です。こうした思想は中世の蔑視されていた人々を魅了しましたが、次第に別の側面が明らかになりました。

 

人間の道徳の基盤や価値が崩れたことは、西洋の文明を大きく揺るがしました。家族の崩壊、母や父が不在で育った子供たち、感情の欠落、犯罪や暴力の拡大、殺人を犯す年齢の低下、人間の本質に合致しない売春、同性愛といったものの恒常化、これらが西洋の物質的文化の生み出した結果です。

 

西洋の仰々しい宣伝や物質的な華美はこうした動揺を簡単には感じさせませんが、現在世界の大思想家たちは、西洋文明が衰退していると考えています。例えば1912年のノーベル生理学・医学賞の受賞者アレクシス・カレルは、『人間、未知なる存在』という著書の中でこのように述べています。

 

「西洋の人間は自らが作った世界において、孤独だ。この存在物は今も自らの世界を調整することができていない。私たちは悪い民族である。私たち国民は衰退しており、理性の破たんの嵐の中に巻き込まれている。この社会において、この産業文明において最も高い発展の地位に到達している国民や社会は弱体化し、無力になる。そしてまもなく敗北と破滅に至るだろう。それもまた他者よりもいっそう速い速度でである」

 

あるアメリカの作家は、西洋の文明についてこのように述べています。「この文明は死肉の臭いを放っている。丁寧に、だがすぐに土に埋める時が来ている」

学者のロバート・G・リンガーは西洋文化の衰退を悟ることで、衰退の根源は道徳的腐敗の中にあるとし、次のように述べています。

 

「西洋では宗教への傾倒が減少する一方で、犯罪や治安悪化が拡大している。アメリカ社会の犯罪は、商業や産業の中心都市においては道や公園を夜間に歩くことができないほど増加している」

 

この他にも西洋世界の文明の衰退に関する理論を有する数多くの西洋の学者たちがいます。

 

ドイツの心理学者で、実存主義の哲学者、カール・ヤスパースもまた、文明の衰退理論の支持者で、多くの人に幸福の決められたレベルを保障する目的を持った現在の産業社会は、人間性にとって危険だと考えていました。ヤスパースは、歴史は精神性の中で見出すことのできる目的を追い求めて進む、と考えていました。それは西洋が世俗主義の経験によって距離をとったものです。ヤスパースは西洋人の精神性の危機について触れ、この危機は人間が機械の道具になり下がったことから生じたものだとし、それを自己疎外感の要因だとしています。

 

西洋文明の中には、老朽化のしるしが見えます。なぜなら理性の衰退に向かって動き、人間性に対する科学によって兵器を作り、暴力、殺人が世界で広まっているからです。これは一つの文明の終焉の始まりを意味しています。コーラン第6章アンアーム章、家畜、第44節には次のようにあります。

 

「(助言が功を奏さず、)彼らが彼らに思い起こさせたものを忘れたとき、すべての恩恵の扉を彼らの前に開いた。彼らが(完全に)歓喜して、(それらに心を寄せたとき)突然、我々は彼らを襲い、(厳しい罰を下した。)このときすべての人が絶望した。(そして希望の扉は彼らの前で閉じられた)」

 

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特別番組 Wed, 02 Mar 2016 20:17:31 +0900
イランの選挙―西側メディアから見たイランの選挙 http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62571-イランの選挙―西側メディアから見たイランの選挙 http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62571-イランの選挙―西側メディアから見たイランの選挙

 

それでは、これらの選挙関連の報道はどのような目的を追求し、メディアはこのようなたゆまぬ努力の結果として、何を望んでいるのでしょうか?今夜は、この疑問への答えを見出すべく、これらの報道宣伝が行われている空間に視点を投じてみたいと思います。

 

この数週間、イランの第10期議会選挙と第5期専門家会議選挙の日が近づいていることから、バーチャル・メディアやニュースサイトはイランの世論や政界への影響力を増すために努力を重ねています。これらのニュースサイトは、「資格審査における多数の候補者の門前払い」といった表現を多用して、選挙の実施を監視する機関である護憲評議会の機能を、1つの派閥であると吹聴することに努めてきました。多くの場合において、また専門的な表現により政界の要人の見解として提示されていたこれらの見解の内容は、議会選挙の候補者の過半数が資格なしと判定されたことを示しています。

各メディアや機関の見解

サウジアラビア政府とつながりのあるニュースサイト、アルアラビーヤは、ある記事においてまさにこのアプローチをとり、イランの次期選挙の結果は事前に決まってしまっている可能性があると主張しました。このサイトはまた、「改革派や穏健派の人物の不在は、イランのローハーニー大統領にとって頭痛の種となりうる」としています。アルアラビーヤの見解では、ローハーニー大統領は、核合意の完全な実施と西側諸国との緊張緩和のために、まだ国民の支持を必要としているが、議会の支持を得られなければ、大統領としての彼の残りの任期は困難なものになるだろうとされています。また、このサイトは「1979年のイラン革命から現在まで、イランでは数多くの変化があったものの、同国では政治的な派閥の間の軋轢がやむことはないだろう」としています。

フランスの24チャンネルも、イランと選挙に関する番組で、、イラン国民による選挙への意欲的な参加というテーマを取り上げ、これに関する専門家の対談において、この選挙における国の全体的なムードは消極的なものだという結論で締めくくっています。このチャンネルの見解では、特定の候補者への思い入れや興奮は存在していないのです。

アメリカの民間シンクタンク・ストラトフォーは、次のように表明しています。

「イランでは、選挙の時期が近づいていることで、言葉上の緊張が激化している」。

このシンクタンクによれば、イランが改革派や穏健派をはじめ、保守派に至るまでの様々な政治集団や派閥の存在により、政治的に極めて活発な国とされ、そのいずれの派閥も、外交や経済問題、社会的な行動のすべてにおいてそれぞれ異なっているとされています。さらに、このシンクタンクは、イランでの選挙に関する議論は最高のレベルに達しており、舌戦が激しくなっているとしています。さらに、2012年には改革派が大々的に選挙をボイコットしたものの、現在再び政権を握ろうと努力している事に触れています。

西側諸国のメディアやバーチャル・ネットワークは、イランイスラム共和国の創始者ホメイニー師の孫に当たる、ハサン・ホメイニー師が、専門家会議選挙に立候補する資格を認められなかったことに関して、干渉的な立場をとりました。

しかし、アメリカ国防総省とつながりのある新聞ザ・ヒルは、別の報告書において違った角度からイランの選挙を捉えており、アメリカ下院議会の3名の好戦的な議員が選挙の監視と、イランの核施設の視察のため、イラン訪問を希望していると報じました。もっとも、この表明に対しては、イランの外交機関から然るべき回答が示されています。

 

イラン選挙に対する表向きの分析・批評は、実は疑問の提示

現実に、今日、メディアはもはや大量の電波や周波数の送信はそれほど必要なく、より大量に、より迅速にというメディアの目的は、SNS・ソーシャルネットワークシステムにより追求されています。SNSは、支配的な手段として世界の大国の目的を達成するために使われています。このネットワークは大抵、社会の内部の隅々にまで浸透し、世論に注目される事柄を生み出します。また、こうしたSNSは候補者の資格審査が透明なものでないことや、資格審査に当たって護憲評議会が厳正かつ中立に審査をしていないことを吹聴し、改革派と原理主義派を区別することで、選挙の雰囲気を殺気立ったものに見せようとしているのです。

このようにプロパガンダ的で何かを吹聴する方法では、表向きには選挙を分析し、批評しているように見えますが、実際にはたくみに、且つ破壊的に選挙のあり方の根本に疑問を提示していることになります。こうしたメディアは、このような手段によってまず世論を挑発し、それからニュースを流すことで、選挙のボイコットといった運動を形成するため、自分たちにとって都合のよいムードが出来上がるよう、ある種の政治的、社会的な不満を引き起こそうとしているのです。

 

国民の投票意欲を挫こうとする国外からの工作

これまでに、西側諸国の決定機関などでは、この種の様々な方法がイランの選挙に影響を及ぼすことを目的に立案されています。武器によらないカラー革命という方法も、こうした方法の1つとされ、その例として2009年の第10期イラン大統領選挙後に発生した騒乱が挙げられます。

国民の投票意欲を喪失させようとする工作は、その国民による選挙への大々的な参加に対する敵の怒りや苛立ちに直接関係しています。こうした挑発行為の目的は、イランでの選挙の実施のあり方への懸念にではなく、イラン国民の投票意欲を弱めることにあります。実際に、イランの敵はこの方法により、世論に影響を及ぼすために一種の心理戦という吹き込みやプロパガンダという形で、自らの怒りを表現しているのです。

西側諸国のメディアは多くの場合、選挙に関する否定的なプロパガンダにより、世論に影響力を及ぼすことで、まず人々に選挙に参加しないよう呼びかけ、この方法では効果がないことが分かると、今度はバーチャル空間での世論操作に乗り出します。すなわち、バーチャル空間では、選挙の結果に透明性がないことを吹聴し、解説することに重点が置かれますが、それはこの方法により、イランの体制責任者に対する国民の信頼を弱めることができると思われるためです。

こうした報道上の世論操作は、武器によらない打倒法の1つとされ、この数年間にイランで実施されたほぼ全ての選挙で追求されました。例えば、2009年の第10期大統領選挙では、欧米諸国の一部がメディアの全ての力や一般的な外交までも駆使して、イラン国民が現体制に対する包括的、社会的な反乱を起こし、国際世論を彼らへの支持に仕向けるよう扇動したのです。ツイッターやフェイスブックといったサイトも、イラン人ユーザーにより多くの利用の可能性を提供しました。

いずれにせよ、こうしたプロパガンダ的な吹き込みにおける中軸となったのは、報道メディアやバーチャル空間上のネットワークを利用して、国民と政治体制の間に亀裂を起こすことだったのです。

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特別番組 Thu, 25 Feb 2016 18:09:22 +0900
イランの選挙(2)~専門家会議~ http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62512-イランの選挙(2)~専門家会議~ http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62512-イランの選挙(2)~専門家会議~

 

イランの専門家会議は、憲法において特別な地位にあることから、この会議の選挙もまた、議会選挙と同じくらい重要なものとなっています。

イランのイスラム体制の各機関は、それぞれが独自の重要性を有しています。しかし、その中でも専門家会議は、憲法によって重要な責務を定められていることから、イスラム体制の中でも最も重要な機関と見なされます。専門家会議が、なぜ、イスラム体制においてそれほど重要な地位にあるかを理解するために、この機関の特徴や責務について詳しく見ていくことにいたしましょう。

専門家会議の議員は、国民によって選出されます。彼らの主な責務は、イランイスラム共和国の最高指導者を選出することです。実際、専門家会議は、体制の最高指導者を選出する上での国民の役割の象徴となっており、国民が投じる票は、この選出への間接的な参加を示しています。

専門家会議は、最高指導者の選出とその条件維持に対する監視の2つの重要な責務を担っています。そのため、専門家会議の職を受け入れることは、非常に重要なものであり、この会議の議員に立候補する者は、政治的な洞察力とイスラム法の点からあらゆる必要な条件を満たしていなければなりません。

一方で、国民は、専門家会議の議員を選出するにあたり、あらゆる点をよく考慮した上で行動し、善良で敬虔なふさわしい人物、重要な局面で正しい決断を下すことができる人物を選ばなければなりません。

イランイスラム革命最高指導者のハーメネイー師は、最近、ゴムの人々を前に演説した際、専門家会議の重要性に触れ、イスラム体制における専門家会議の役割は、体制のさまざまな機関の中でも最も重要で決定的なものだとしました。ハーメネイー師は、「イスラム体制のいかなる機関も、その重要性と影響力の点で、専門家会議に優るものはない」と語りました。このような重要性により、専門家会議とそれを構成させる人々の責務は、大きな意味を持ってきます。

このような最高指導者の専門家会議に関する強調は、この組織がイスラム体制の政治的な構造において、決定的な地位を持っていることを示しています。この組織は、体制のいかなる機関とも比較することはできず、最高レベルの役割を担っています。では、このような特別な地位にある理由は、どこにあるのでしょうか。

専門家会議は、最高指導者の選出とその活動の監視という重要な問題において、国民の信頼を得た著名な聖職者・ウラマーからなる組織です。そのため、聖職者は、社会のさまざまな出来事において大きな影響を及ぼし、その最高レベルにあるのが、専門家会議です。

実際、革命の永遠性と、ホメイニー師の思想に基づいたイラン国民の革命的な運動の継続は、専門家会議の正しい行動にかかっています。つまり、革命的で賢明な専門家会議の議員が、国民の代表としてこの組織に存在し、正しい行動を取っていけば、この運動は継続されるでしょう。そのため、最高指導者は、この選挙において、洞察力に基づいて行動し、善良で敬虔、かつ判断力があり、賢明で革命的な人物を選出するよう、国民に呼びかけているのです。

イスラム共和国の創始者ホメイニー師が亡くなった1989年、専門家会議の役割がいかに重要で決定的であるかが示されました。専門家会議は、イスラム体制における最高指導者の継承に混乱が生じるのを許しませんでした。

イスラム体制において、最高指導者の地位は特別な重要性を有しています。そのため、最高指導者を選出する専門家会議も重要な地位にあります。ホメイニー師が亡くなった後の重要な時期に、24時間以内にハーメネイー師を最高指導者に選出したことは、イスラム体制における専門家会議の地位の重要性を示す出来事でした。

イラン憲法によれば、専門家会議は3つの重要な責務を負っています。憲法第107条により、最高指導者の決定は、国民が選出した専門家会議が担うとされています。専門家会議は、憲法第5条と109条に定められた条件を満たす全ての聖職者について議論、調査を行い、条件を満たしている人物を選出し、国民に紹介します。この会議の見解や選出は、法やイスラム法に基づき、国民にとって絶対的なものとなります。このように、専門家会議の第一の責務は、イランイスラム共和国の最高指導者を選出することです。

イラン憲法第111条では、専門家会議の責務のひとつは、最高指導者の状況継続に対する監視であるとされています。最高指導者が法的な義務を遂行できない、あるいは憲法の別の条項で定められた条件の一つでも満たしていない、あるいは初めから一部の条件が不足していたことが明らかになった場合、最高指導者は解任されます。その判断は、専門家会議が担います。

専門家会議の議員の数は、それぞれの州の人口を考慮し、100万人につき1人となっています。今回選挙が行われる第5期専門家会議の議員の数は86人になります。

ふさわしい道徳を身につけていること、一部のイスラム法学に関する問題を説明する力があること、最高指導者としての資格がある人物を判別できること、政治的、社会的な洞察力を持ち、その時代の問題に精通していること、これらが、専門家会議の議員の選出において考慮される事柄です。これらの条件に基づき、護憲評議会は候補者の資格を審査し、それらを満たしていると判断された場合、立候補が認められます。専門家会議の議員の任期は8年です。

多くの聖職者が、専門家会議の議員になるために競争を繰り広げるのは、最高指導者が最近の演説の中で指摘した重要性によるものです。「専門家会議は一年に2回集まり、政治やそれ以外の問題に関して議論を行い、その後で解散するもの、というふうに捉えるべきではない。専門家会議は最高指導者を選出する。これは非常に重要である。あなた方が選出するのは、実際、革命の運動の鍵を握る最高指導者を決定する組織の議員である。これは非常に重要なことであり、決して小さな行動ではない。そのため、よく調べて確信を得る必要がある。そのため、選挙と選挙への参加はひとつの問題であり、正しい選択も注目すべき問題である」

こうしたことから、最高指導者は、専門家会議をイスラム体制における最も重要な組織だとしているのです。

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特別番組 Mon, 22 Feb 2016 22:55:12 +0900
イランの憲法における議会の役割(1) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62360-イランの憲法における議会の役割-1 http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62360-イランの憲法における議会の役割-1

 

イランでは、国会やその体制はどれほど重要な存在なのでしょうか?また、イランの憲法では、国会の役割はどのように定義されているのでしょうか。今回は、イランの憲法における国会の位置づけについて考えていくことにいたしましょう。

イランの憲法では、国家の行政は国民の投票に基づいて行われ、それは国会議員選挙という枠組みで実現されるべきだとされています。イランの国会議員は、国民の直接、あるいは間接的な投票により選出されます。イラン憲法第76条では、国家行政のすべてにおける調査の権利は国会にあると定められています。イラン憲法では、国民の代表者である国会議員は、自らの見解の表明において完全に自由であり、国会で自らの見解を述べた、あるいは国民の代表としての責務を果たす立場において意見を述べたことを理由に、彼らを訴追、逮捕することはできません。一般的にイスラム評議会とも称されるイランの国会の議員は、法律の制定と監視という2つの主要な責務を担っています。

イラン憲法第71条によれば、国会は一般的な法律を定める資格を有するとされ、次のように述べられています。

「国会は、一般的な問題に関して、憲法の範囲内で法律を制定できる」

これに基づき、法律の起草や提案は法案、及び草案という2つの名目で国会に提出されます。法案とは、法的な段階を経た後に、法律という形で可決されるために政府から国会に提出される内容を指します。草案とは、少なくとも15名の国会議員や各州の高等評議会により提出される提案を意味します。

このほかに、国会議員が担う責務には、予算法などの可決や国際的な取り決め、国境線の変更、戦争などの緊急事態における国として必要な制限措置の行使の承認などが挙げられます。

イラン国会は、法律の制定の責務に加えて、監視・監督の責務も担っています。憲法第133条により、閣僚は大統領によって指名された後、信任投票のため国会に推薦され、国会はこれらの指名された人物1人1人に信任の是非を通知します。憲法第76条では、国会は国会行政の全てを調査する権利があるとされています。この条文によれば、調査の内容は政府や各省庁をはじめとする、国家の全ての部門を含む普遍的なものとなります。

事実上、国民によって選ばれた国会議員による法案の可決は、多くの決定や計画の立案の中軸となります。イランの法律では、国会は社会、経済、政治、広報、軍事、倫理、そして司法権とも呼ばれる刑事といった様々な分野における社会のニーズの全てのために法案を制定し、可決する機関とされています。

実際に、国会は国民の投票を突き詰めたものといえます。また、法律は選挙権と被選挙権を有する条件、そして選挙の実施方法についても定めています。イラン憲法では、立法権の幅広い権限や責務の説明が憲法全体の3分の1を占めるほど、立法権が非常に重視されており、これは国会に特別な立場や権限を与えています。このため、イスラム共和制における国会は行政の長とされ、憲法第59条ではイランにおける決定の最も重要な柱とされています。

イラン国会は、これまでの第9期まで定期的に結成され、イスラム共和制において重要な役割を果たしていることから、イランに国会が存在しなかった時期はありませんでした。国会議員の任期は4年とされ、国会の不在という事態が生じないよう、いずれの国会議員選挙もその前の国会の任期が満了する前に実施されることになっています。

現在、イランの国会議員数は290人となっています。1989年の国民投票以来、10年ごとに政治的、地理的な要因などを考慮したうえで、最大限20人までを議員に追加してもよいことになっています。さらに、ゾロアスター教徒やユダヤ教徒も、それぞれ1人ずつ代表議員を有しており、またアッシリア東方教会とカルデア教会に属するキリスト教徒全体で1名の議員を選出します。さらに、南北アルメニア系のキリスト教徒も、それぞれ1人ずつ議員を選ぶことになっています。

国会議員は、一般的な問題において、憲法に定められた範囲内で法律を制定できます。イラン憲法第72条によれば、国会議員は国の正式な宗教の戒律や原則、或いは憲法に反する法律を定めることはできないとされています。憲法や宗教に違反するか否かの識別は、憲法第96条により護憲評議会が行うことになっています。

法案は、閣僚により承認された後に国会に提出されます。イラン国会では、少なくとも15名の議員の提案により法的な草案を作成することができます。イラン憲法では、閣僚と大統領が国会に対する責任を負うことが定められています。このため、国会議員は閣僚のあり方に疑問を呈し、必要な場合には全内閣あるいは閣僚のいずれかを弾劾でき、さらに必要であれば不信任を表明します。国会が信任表明をしなかった場合、内閣は総辞職、或いは弾劾の対象となった閣僚のみが解任されます。

議員全体の少なくとも3分の1が、国家行政や行政権の運営の責務を実施する立場にある大統領を弾劾すべきだとした場合、大統領はこのときから1ヶ月以内に国会に出頭し、提示されている疑問を十分に釈明する必要があります。議員らの賛成、反対意見の陳述と、大統領の釈明の後、議員全体の3分の2が大統領不信任決議に賛成票を投じた場合には、憲法第110条第10項の実施に当たっての事情が、最高指導者に通達されます。

さらに、国会や行政、司法のやり方に不服がある者は、その内容を文書にて国会に提出することができます。国会はまた、こうした不服をも審議し、十分な回答を示す責務があります。

国会で可決された内容は全て、護憲評議会に提出される必要があります。護憲評議会は、これを受け取ってから最大10日間のうちに、それらを憲法やイスラム法と照合して審理し、憲法やイスラム法に違反すると判断した場合には、再検討のためこれを国会に差し戻すことになっています。これ以外の場合には、国会の可決内容は実施可能となります。

イラン憲法によれば、イスラム法学者や法律家で結成される護憲評議会は、国会での可決内容においてイスラムの戒律が擁護され憲法が完全に遵守されるため、可決内容や法律を認証する責務を有しています。護憲評議会は、最高指導者により選ばれた公明正大で現代の時勢や問題に精通している6人のイスラム法学者、さらに司法府長官により国会に紹介され、国会の採決により選出された6人の法律家の、合計12名で構成されています。

国会で承認された内容がイスラムの戒律に反していないかどうかの判定は、護憲評議会の多数票によって決まります。護憲評議会はまた、専門家会議選挙、大統領選挙、国会議員選挙の監視及び監督、そして行われた選挙や国民投票の結果について審議する責務を有しています。

イランの第1期国会議員選挙は1980年6月、イスラム革命の創始者であるホメイニー師のメッセージにより開始されました。イラン国会は実際に、イラン国民の意志を示すものであり、法律の制定のために選出された議員は全ての国民の代表といえます。これらの代表者がイランの国会を結成しており、国民に対する責務を負っているのです。

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特別番組 Tue, 16 Feb 2016 23:07:14 +0900
イラン国民のソフトパワーの象徴、革命勝利記念日に寄せて http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62227-イラン国民のソフトパワーの象徴、革命勝利記念日に寄せて http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62227-イラン国民のソフトパワーの象徴、革命勝利記念日に寄せて 特別番組 Thu, 11 Feb 2016 20:01:23 +0900 欧米諸国の一般の若者たちに向けて(12) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62192-欧米諸国の一般の若者たちに向けて(12) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62192-欧米諸国の一般の若者たちに向けて(12)

 

最高指導者の書簡の一部は、テロの根源について、この共通の痛みの解決策を考えることを呼びかけたものでした。最高指導者はこの書簡の冒頭でこのように記しています。

「フランスで無差別のテロリズムが引き起こした痛ましい出来事は、改めて私をあなた方若者たちとの対話に駆り立てた。私にとってこのような出来事が話をする機会を生じさせるのは遺憾なことだが、実際、もしこのような痛ましい問題が解決策を探る下地や共通の考えにいたるための手段を整えることがなければ、被害は倍増するだろう」

最高指導者はこの書簡で、西側の文化政策が過激派の拡大に及ぼしている影響について、このように述べています。

「私は文化の結びつきの重要性や価値を否定していない。この結びつきは自然な状況の中で、またそれを受け入れる社会が尊重される中で行われるときに、成長と成熟、豊かさをもたらす。これに対して、強要された互いに咬みあわないものの結びつきは失敗した有害なものだ。誠に遺憾ながら、ISISなどの卑劣なグループはこのような輸入文化との結合の失敗の産物であると言うべきだ」

ハーメネイー師は、過激派とテロの根源は、信条の問題ではないと強調しています。

「もし問題が本当に信条的なものなら、植民地主義の時代の前にもイスラム世界にこのような現象が見られただろうが、歴史はそうではないことを証明している。歴史的に明らかな証拠ははっきりと、どのようにして、あるベドウィン族の中での植民地主義と、現在孤立している過激派思想の融合が、この地域に過激派の種を植えたのかということを示している。そうでなければ、一人の人間の命を奪うことは人類すべてを殺すことに等しいと考えている世界の最も道徳的で人間的な宗教の中から、どのようにしてISISのような屑が生まれるというのだ?」

前回の番組では、歴史の中で過激主義の思想が純粋な思想の傍らに存在していたということをお話ししました。それはまさに庭に生える雑草のようなものでした。しかしながらイスラムの純粋な思想はその内容の豊かさにより、常に過激主義に対して勝利してきました。雑草は決してイスラム思想の力強い木を枯らすことはできませんでした。歴史が示しているように、覇権主義の時代が到来する前まで、逸脱した流れはイスラム世界で効果を発揮する勢力を出現させる)ことができませんでしたが、イスラム誕生後およそ1200年、イギリスが植民地主義を拡大していたまさにその時に、イスラム教の思想から非常にかけ離れたイブン・タイミーヤの過激思想が再び命を吹き返しました。

前回の番組では、ワッハーブ派という逸脱した思想に対するイギリスの大規模な支持に関してお話しし、どのようにしてこの植民地主義が、イスラム諸国の間に亀裂を作りだすために、二度の敗北を味わったワッハーブ派のサウード族を権力の座に就かせ、彼らによるイスラム教徒への信じられない犯罪を支持したのかということについてお話ししました。

歴史が示しているように、サウジアラビアが誕生してから30年の間、ワッハーブ派サウードの狂信的な一族は、アラビア半島で、恐ろしい方法で数万人のイスラム教徒を殺害し、負傷させ、数千人の四肢を公衆の面前で切り落としました。これに加えて、数万人がアラブ世界のほかの土地に逃げることを余儀なくされ、彼らはもはや祖国に戻ることはありませんでした。この時代、アラブ世界とイスラム教徒は西側の植民地主義国の残酷な管理のもとにあり、サウジアラビアは大英帝国の保護のもと、彼らと友好関係を築いていたため、あらゆる懲罰をまぬかれていました。

こうして植民地主義という絶好の下地を踏み台にして、タクフィール主義のテロの流れが拡大しました。オスマン帝国の存在にもかかわらず、アラビア半島においてサウード族が成長し、権力の座についたことを分析するには、植民地主義との関係と大英帝国の役割を見るだけで十分です。オスマン帝国の崩壊後、没落しつつあったサウード政権への大英帝国の全面的な支援は、地域の政治的な将来を完全に変化させました。こうして砂漠の民であるベドウィン族は1200年の間イスラム世界で否定されていた逸脱した思想によって、権力を得、地域に過激主義の種をまきました。

そのときから100年以上が経過した現在、ワッハーブ派のサウード族は自らの逸脱した教義を真のイスラムとして広め、他のイスラム教徒を殺されるに値する異端とみなしています。世界の多くのメディアは、あらゆる手段やプロパガンダを駆使して、イスラムとサウジアラビアのワッハーブ派を同等のものとして広めました。ワッハーブ派の指導者はシリアやイラクのイスラム教徒の女性や子供の殺害を命じ、すべてのイスラム女性の命や財産、名誉を無視しています。タクフィール主義のテロリストはワッハーブ派の指導者の命令によりあらゆる犯罪に手を染めているのです。

サウジアラビアはすべての力を用いて、過激主義に対する抵抗の軸をつぶし、その代わりに資金と武器によってテロリストを強化しています。しかしながら西側のサウジアラビアに対する立場はいまも友好的なものです。最高指導者は書簡の中で、このように述べています。

「タクフィール主義のテロリズムの明らかな支持者は、政治的に最も遅れた体制を持つにも関わらず、常に西側の同盟者の列に位置している中、地域の躍動的な民主主義から立ち上った最も明らかで発展した思想は冷酷に弾圧されている」

第2次世界大戦の結果、アメリカは西側の大国として、イギリスにとって代わりました。アメリカはサウジアラビアをアメリカの比ゆ的な意味での植民地とみなし、ワッハーブ派への支援をイギリスよりも大胆に実行しました。アメリカのヒラリー・クリントン前外相は、アメリカ議会での演説で、ワッハーブ運動の形成にアメリカが関与していたことをはっきりと認めています。

2001年のアメリカ同時多発テロ後、アメリカのメディアのプロパガンダに反して、アメリカは再び、サウード政権を強く支持しました。サウジアラビアとカタールは、経済やメディアへの大きな投資により、一部のヨーロッパ諸国においてメディアや政治面で大きな支援を取り付けることに成功しました。こうしたメディア面でのロビーの大きな支援は、アルカイダ創設や9.11事件におけるサウジアラビア人やワッハーブ派のイデオロギーの役割を覆い隠しただけでなく、アナリストはワッハーブ派はイスラムをアメリカの有利に変えるためにアメリカの命令を実行したと考えています。

道徳や人間性といった強力な後ろ盾を有するジハード、殉教、抵抗といった人間を作る気高い概念は、現在、新植民地主義優越政策により、イスラムのイメージを壊すための手段、またイスラム教徒の大虐殺のための手段となっています。真のイスラムに対抗するためにこれより良い方法があるでしょうか?ワッハーブ派は実際、イスラム共同体に対して植民地主義者が作った武器のようなものなのです。

現在、アメリカとそのヨーロッパの同盟国は、ISISに対する連合を結成することで、テロとの戦いを主張しています。しかしながら、西側やその支持国のメディアの報道はともかく、事実は別の事柄を伝えています。イラクの人々や軍の司令官は何度となく、連合の航空機が、イラク北部や西部のISISに後方支援を行っているのを見たと表明しています。

ISISに対する国際連合がISISの占領地域で、ISISのために食料や武器を上空から投げ落としていることを示す多くの映像や文書も存在します。ISISのテロリストはイスラエルの設備の整った病院で治療を受けており、この政権の高官の歓迎を受けています。イラクの国会議員の一人は、このように述べています。「ISISに対するアメリカの闘いは偽りである。なぜならアメリカがもし本当にこのテログループとの戦いを望んでいたなら、1週間で彼らをせん滅することができるからだ」。アナリストは、アメリカは優越主義的な目的を推し進めるためにISISの存在を必要としている、と考えています。

最高指導者のハーメネイー師は西側の若者に充てた二通目の書簡で、西側の政策の矛盾とテロに対するダブルスタンダードについて触れ、このように述べています。

「敬愛する若者たちよ!私はあなた方が現在、そして将来、こうした欺瞞に満ちた考えを変えることを期待している。こうした考えは、長期的な目的を隠し、欺瞞的な目的を美しいものと見せている。私は、安全や平穏を生じさせる第一の段階は、こうした暴力的な思想を改めることだと考える。西側の政策にダブルスタンダードが占めている限り、テロリズムがその支持者によって良いものと悪いものに分けられている限り、政府の利益を人間的、道徳的な価値よりも優先している限り、暴力の根源を別の場所で探るべきではない」

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特別番組 Wed, 10 Feb 2016 13:20:13 +0900
世界の半分・イランの古き都イスファハーンを訪ねて(2) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62098-世界の半分・イランの古き都イスファハーンを訪ねて(2) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62098-世界の半分・イランの古き都イスファハーンを訪ねて(2) 特別番組 Sat, 06 Feb 2016 18:34:34 +0900 世界の半分・イランの古き都イスファハーンを訪ねて(1) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62055-世界の半分・イランの古き都イスファハーンを訪ねて(1) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62055-世界の半分・イランの古き都イスファハーンを訪ねて(1)

また、イスファハーンは政治の中心地としてのみならず、シルクロードの要衝に位置することから商業の拠点、さらには文化、芸術の都としての地位を確固たるものにしています。当時、この大都市は、世界各地から訪れた商人や外交使節からは、世界の半分とも評されるほど栄華を極めました。今回から2回にわたり、私・山口雅代がイランの古き都、イスファハーンの魅力をたっぷりとお伝えしてまいります。

 

イスファハーンのあらまし

イスファハーンという地名は、もともとは「軍隊が駐留する町」、あるいは「戦いの野営の土地」を意味します。それは、7世紀にアラブ軍がイランに侵入した際、この町が兵士たちの野営のために使用されたことに由来するものです。イスファハーン州の中心都市でもあるこの町は、首都テヘラン、北東部の聖地マシュハドに次ぐイランで第3の都市とみなされ、人口はおよそ200万人ほどです。また、華やかなイスラム建築による建造物や世界遺産が数多く存在し、細密画、手工芸、じゅうたん製造などが盛んな、文化と芸術の町でもあります。このような魅力あふれるイスファハーンに、今回はテヘランから空路で向かうことになりました。

 

アッバース大王の一大プロジェクト・イマーム広場

まず足を運んだのは、世界遺産にも指定され、南北に510メートル、東西に163メートルに細長く伸びている長方形の広場、「イマーム広場」でした。この広場は、ナクシェジャハーン広場、すなわち「全世界の図」という別名もあります。ここには、細かいタイル装飾が施されたスカイブルーのモスクや、イスラム風のアーケードつきの商店街、さらには多種多様な手工芸品などを販売する工房が並び、また馬車も走っています。まさに、この広場そのものが野外美術館とでもいうに相応しく、その壮大な光景に思わず息を呑んでしまうほどでした。時の為政者アッバース1世は、政治、経済、宗教の全てが大集合した最高の広場を造ろうと思い立ち、1598年に着工したものの完成には数十年を要したということです。

 

イスファハーンを代表するイマーム・モスク

この広場で、真っ先に目に付いたのは、南側に佇むイマーム・モスクでした。これは、イランのイスラム建築の最高峰とも言える、サファヴィー朝時代を代表する建造物です。当時の為政者アッバース1世の命により、1612年に着工し、26年をかけて建築されました。4本のミナレットが立つこのモスクは、遠くからでも非常に目立ちます。ですが、まずはそのアーチ型の入り口の天井に施されている、スカイブルーを基調とした細かいタイル装飾が幾何学的に幾重にも連なっている部分が目を引きます。まるで、蜂の巣の内部のように、幾何学的なくぼみが規則正しく連なっている中にタイル装飾が施されており、とにかく見事の一言に尽きます。次に、この壮麗な入り口を通って短い回廊を通り過ぎ、広い中庭に出ました。ここは、大きなアーチの両側に、2段にまたがる小さめのアーチが連なった建造物に取り囲まれています。これらのアーチや壁、天井にもブルーを貴重とした化粧タイルによる見事な装飾が施され、それが延々と続いています。さらに、そうした化粧タイルによる独特の書体のイスラム書道も実に壮観です。これは、アラビア語によるコーランの章句でしょうか。さすが、世界に名だたる観光名所だけあって、沢山の外国人観光客も見学に来ていました。

 

イラン初の高層建築・アーリーガープー宮殿

次に見学したのは、イマームモスクを出て向かって西側にある、アーリー・ガープー宮殿でした。これは、イランで初の高層建築と言われています。18本の柱があるこの宮殿は、外から見ると3階建てに見えますが、実際には6つの階があります。

さて、意を決して中に入り、らせん状に続く階段を上り始めました。この階段は、段差がかなり大きく、しかもブルーを貴重とした化粧タイルが敷き詰められています。いずれの階もとにかく、壁や天井の装飾が大変見事であり、幾何学的なデザインや、アラベスク模様が延々と連なる装飾がびっしりと施され、栄華を誇ったサファヴィー朝の雰囲気が見て取れました。この宮殿の特に重要な見所は、最上階の音楽堂です。音響効果を挙げるため、アーチ型の天井には、イランの弦楽器タール、もしくはセタールかと思われるような形の数多くの穴が、規則正しく設けられています。これがまた、全体として眺めた場合に絶妙な光景をかもし出しているのです。音響とビジュアルという2つの効果を挙げるための、この不思議な装飾に、しばし時間を忘れて佇み、当時ここでどのような音楽会が催されたのだろうかとの思いにふけりました。

外国人旅行者のコメント

それではここで、外国からイスファハーンにやって来た旅行者の方のインタビューをお届けしましょう。

どこの国から来ましたか?

―私は、アブドゥルハミド・ラフマーンと申します。エジプトから来ました。

イスファハーンの町をどのようにご覧になりますか?

―私は、テヘランをはじめとするイランの他の町も訪れたことがありますが、イスファハーンは他の町と比べて、独特の都市計画により街路区画がきちんと整備され、非常に整っていると思います。また、私から見てイスファハーンの最も大きな特徴は、建築技術や多種多様な手工芸などの芸術が非常に盛んであること、そしてイスラム圏にありながらキリスト教会やゾロアスター教寺院などが混在し、平和共存のイメージが感じられることです。また、エナメル細工やじゅうたんなどのイスファハーンの手工芸品は、イランのお土産として最適ではないかと思います。

日本人のリスナーの皆様に、一言メッセージをお願いします。

―私たちエジプト人にとって、日本国民の皆様は兄弟のような存在です。イランには大変数多くの見所が存在しますが、その中でも、イスファハーンの美しさは格別であり、まさにイランの真珠というに相応しいものです。イランへのご旅行の際には是非、イスファハーンを訪れていただき、悠久の歴史と華やかな文化、そして芸術を満喫していただきますよう願っております。

 

王族専用のモスクだった・シェイフロトフォッラーのモスク

さて、今度はアーリーガープー宮殿のちょうど向こう側にある、王族専用のモスク、シェイフ・ロトフォッラーのモスクに足を運んでみました。これもやはり、アッバース1世の命により造られたものですが、その目的は、レバノンの著名な説教師シェイフ・ロトフォッラーを招聘するためだったとされています。このモスクは、王族専用であることから、先ほどのイマーム・モスクよりも小さめで、普通のモスクに見られる中庭やミナレットはありません。しかし、そのドームの内部に見られるモザイク模様は、実に見事なものです。このモスクの装飾の特徴は、絵柄のある化粧タイルではなく、小さなサイズの彩色タイルをモザイク上に敷き詰めることとで独特の模様ができていることです。イランの典型的なモスクは、ブルーを基調としたものが多くなっていますが、このモスクのドームや礼拝堂の内部はクリーム色のタイルが多く使われています。特に、ドームの内部を全体的に見ると、中央部の円形の模様の周りを、外側に向かうにつれてだんだん大きくなる網目が広がっているように見えます。1つ1つの網目の模様の中にも、さらに細かい模様が施され、まさにイスラム芸術の最高峰というにふさわしいものでした。

イスラム風の市場ゲイサリーエ・バザール

さらに、この広大なイマーム広場は、北側にあるゲイサリーエ門が正門となっており、ここから先はゲイサリーエ・バザールと呼ばれる、イスラム風の市場があります。アーチ型のアーケードが続く屋内には、観光客向けに絨毯や手工芸品、イスファハーンの郷土銘菓などを販売する商店が軒を連ねています。その手工芸品もまた、エナメル細工や銀細工、木工細工、ガラス細工、象嵌細工など非常に多岐にわたり、見る者を飽きさせません。このバザールには、イスファハーンのお土産が大集合していると言ってもよいでしょう。

 

この広場の見学の締めくくりに、先ほどから広場の内部で何度も出会っている馬車に乗ってみることにしました。軽快な足取りで走る馬車は、今まで見学してきたモスクやアーリーガープー宮殿、手工芸品の工房の並びの前を通っていきます。かのアッバース1世とその一族たちも、広場の内部を移動するときにはこうして馬車に乗っていたのでしょうか。白馬が引く馬車に揺られながら、しばしサファヴィー朝時代の王侯貴族になったような気分を味わいました。この広場全体を見学してみて、まさにイスファハーンは世界の半分だと実感しました。

次回も、まだまだたくさんあるイスファハーンの魅力をお伝えしてまいります。どうぞ、お楽しみに。

 

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特別番組 Thu, 04 Feb 2016 19:09:50 +0900
欧米諸国の一般の若者たちに向けて(11) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62046-欧米諸国の一般の若者たちに向けて(11) http://japanese.irib.ir/component/k2/item/62046-欧米諸国の一般の若者たちに向けて(11)

 

イランイスラム革命最高指導者のハーメネイー師は、欧米の若者たちに宛てた二通目の書簡で、テロの根源と、その創設と強化における西側のダブルスタンダード政策の影響について語りました。ハーメネイー師はテロを西側とイスラム世界の共通の痛みだとし、西側のテロ支援を非難しました。ハーメネイー師はこのように強調しました。

「西側の政策にダブルスタンダードが占めている限り、テロリズムがその支持者によって良いものと悪いものに分けられている限り、政府の利益を人間的、道徳的な価値よりも優先している限り、暴力の根源を別の場所で探るべきではない」

最高指導者はこの書簡の中で、テロや過激主義は信条的な要因はないとし、このように語っています。

「もし問題が本当に信条的なものなら、植民地主義の時代の前にもイスラム世界にこのような現象が見られただろうが、歴史はそうではないことを証明している。歴史的に明らかな証拠ははっきりと、どのようにして、あるベドウィン族の中での植民地主義と、現在孤立している過激派思想の融合が、この地域に急進派の種を植えたのかということを示している。そうでなければ、一人の人間の命を奪うことは人類すべてを殺すことに等しいと考えている世界の最も道徳的で人間的な宗教の中からISISのような屑を出すことができるというのだ?」

ハーメネイー師はこの書簡の中で、西側のメディアのすべてが覆い隠そうとしている事実について強調しています。西側のメディアは現在、非現実的な解説や分析を提示することで、イスラム思想を暴力や過激主義の根源として見せようとしています、西側のメディアにおいて、ISISは「イスラム政府」「イスラミック・ステート」と呼ばれ、ISISのテログループの犯罪をイスラムと関連付けています。しかしながらISISやその悪しき犯罪はイスラムとどのような関係があるというのでしょうか?この問いはイスラムの教えのもとで育ち、人間の尊厳と命の大切さをコーランの中で読んできた人々にとって明らかな答えを有しています。その回答とは、「ISISのテロリストからはイスラムの香りは感じられない」というものです。

歴史が示しているように、宗教的、人道的なあらゆるグループの傍らには、常に、過激で極端な道を進むグループが存在してきました。とはいえイスラムもこの例外ではありませんが、他の宗教との違いは、イスラムではコーランという宗教書の内容の豊かさや改変されていない源のために、常に過激派はわきに追いやられ、力を持つことはなかった、ということです。ハーメネイー師はこれに関して、歴史は、どのようにして植民地主義とベドウィン族との出合いが過激主義的な根源を地域に根付かせたのかを示している、としています。この指摘を詳しく見ていくことは、テロの根源を探る上での助けとなるでしょう。

タクフィール主義のワッハーブ派の形成の歴史を見ることで、この問題を解き明かすことができます。イスラムが誕生してからおよそ400年、イブン・タイミーヤという名の人物が異端な宗教を広め、それによって多くのイスラム教徒が不信心者とされました。彼の過激な思想はムハンマドの真のイスラムの教えに反していたので、すぐにイスラム教徒や聖職者たちの大きな反対に直面し、消え失せました。しかし400年後、大英帝国の植民地主義がイスラム諸国を支配しようとしたとき、この思想は、イスラム教徒の間に根本的な亀裂を生じさせるために、再び息を吹き返したのです。

大英帝国はイスラム教徒の団結を、自らの覇権主義的な目的を妨げる最大の障害と見て、この統一を乱そうとあらゆる道を探りました。歴史が示しているように、イギリスはこの時代、スパイをイスラム諸国に送り込み、イスラム共同体を分裂させ、弱体化させるために、必要な情報を手に入れようとしていました。

多くのイスラム教徒は殺されるにふさわしいと考えていたイブン・タイミーヤの逸脱した思想は、400年後の植民地主義者にとって非常に注目に値する思想でした。ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブは、その当時、学がなく、切れやすい若者で、タクフィール主義という過激な思想に傾倒していました。彼の厚かましさ、学のなさ、強情さに目を付けたイギリスのスパイは、彼を、イギリスの植民地主義の目的を実現するための最良の駒とみなしました。彼らは様々な方法で、彼の思想や活動を誘導し、明らかにイスラムの教えとは反する異端な思想を強化することで、イスラム教徒の間の分裂を煽ろうとしたのでした。

ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブは逸脱したタクフィール主義思想のために、イスラム法学者や家族からも追放された後、イギリスの支援を受けて、ヒジャーズのダルイーヤの町に向かいました。その地にはラクダや羊の飼育にいそしんでいる砂漠の民が暮らしており、貧困にあえいでいました。この地の為政者であったムハンマド・イブン・サウードは、タクフィール主義思想によってイスラム教徒の部族やキャラバンから強奪することができると気付き、ムハンマド・イブン・ワッハーブを歓迎しました。一部の歴史家は、この地の為政者はイギリスから金をもらい、イブン・アブドゥルワッハーブと連帯を組まされたと考えています。

この連帯の後、イブン・アブドゥルワッハーブは、イブン・サウードとイギリスの資金や武器面での支援を受け、軍隊を結成し、イスラム教徒に対して多くの犯罪を行いました。イラク南部のカルバラを攻撃し、半日だけで少なくとも2000人の住民を殺害し、預言者一門の聖廟を破壊し強奪したり、メディナを攻撃したりしました。これらのサウード族の犯罪は、イスラムの土地に多くの恐怖を広めました。こうした犯罪の後、オスマン帝国が1818年にダルイーヤを拠点としたワッハーブ・サウード政府を攻撃し、彼らを敗北させました。

暴力的なワッハーブ派は1818年に消滅しましたが、すぐにイギリスの植民地主義の支援によって復活しました。1866年、ワッハーブ・サウード政府は大英帝国との友好協定を締結しました。大英帝国はその当時、その植民地主義的な犯罪により、すべてのイスラム教徒に憎まれていました。ワッハーブ・サウード政府は資金や武器を受ける代わりに、地域でイギリスの植民地主義者と協力することに同意しました。この契約は人々の不満を生じさせ、サウード族の二回目の消滅の下地を整えました。1891年、オスマン帝国が再びリヤドを攻撃し、サウード一族を消滅させました。そしてその後ラシード一族がサウジアラビアをおさめることになりました。

20世紀が幕を開け、アラビア半島での大英帝国の植民地主義戦略は即座にやり方を変更しました。大英帝国はオスマン帝国の完全消滅のために、クウェートに逃げていたワッハーブ派サウード家の存続を、それまで以上に支援することを決めました。1902年、大英帝国の資金・武器面での支援を受け、アブドゥルアズィーズがリヤドを完全に掌握しました。リヤド占領後に彼らが最初に行った行動は、反対者を公開処刑し、住民に恐怖を植え付けたことでした。ワッハーブ派は1200人の住民を焼き殺しもしました。

このとき、イブン・サウードという名前が西側で知られていました。アブドゥルアズィーズ王はイギリスのサウード家支援者の間で高い評価を得ていました。大英帝国の多くの関係者やそのアラブへの使節が彼と面会したり交流を持ったりし、寛大に資金や武器を彼に供与し、思想面での助言を行ったりしていました。イギリスの武器、資金、顧問を使用することで、アブドゥルアズィーズはアラビア半島の大部分をサウード・ワッハーブの旗の下に置きました。今日それがサウジアラビアとして知られているものです。

こうして植民地主義とベドウィン族の逸脱した思想が出合ったときから、イスラムのすべての宗派に対する過激主義や暴力主義は破壊的な流れに変わり、いつでも植民地主義の目的に仕えてきました。ワッハーブ派はイスラムの宗派の一つではなく、イスラム誕生後の800年、特別な目的のために作られ、支持されてきた逸脱したグループです。現在この危険な流れは、イスラム世界に対する犯罪と裏切りの数百年を経て、再びイスラムのイメージを破壊し、イスラム教徒を殺害するために、アメリカなど西側政府の支援を受けて信じられないような犯罪に手を染めています。西側の政府はイスラム教徒に対するテログループの犯罪に目をつぶりながら、西側でのテロ攻撃に対して懸念を表しています。次回の番組ではこれに関してさらに詳しくお話しすることにいたしましょう。

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特別番組 Wed, 03 Feb 2016 23:09:41 +0900
アボルハサン・ナジャフィー博士 http://japanese.irib.ir/component/k2/item/61951-アボルハサン・ナジャフィー博士 http://japanese.irib.ir/component/k2/item/61951-アボルハサン・ナジャフィー博士

 

偉大であった

現代の人であった

全ての開けた地平線とつながっていた

水と大地の声をよく理解していた

ありのままの姿だった

そして彼は、繰り返されるみずみずしい雨のようだった

(ソフラーブ・セペフリー)

今回の番組では、イランの文学者、作家、言語学者であったアボルハサン・ナジャフィー博士に追悼を捧げ、彼の功績についてお話ししましょう。

アボルハサン・ナジャフィー博士は、非常に質素に暮らし、ひっそりと亡くなりました。彼は、伝統と革新を完全に理解する文学者で、現代文学をよく知り、文学的な独創性や思想を理解するとともに、古典文学にも造詣の深い人物でした。彼はまた言語学者で、完全に学術的な精神を持ちながら、文学的な独創性やその力を知り、文学的な知識を、文学の創造と混同して捉えてはいませんでした。ペルシャ語の古典文学に精通し、その分析において新たな主張を行う一方で、世界の現代文学を学び、世界を代表する文学者となり、イランの優れた現代作家の指導者でもありました。

ナジャフィー博士は、多くの翻訳や本の執筆により、文学を愛する人々に、西洋の物語や戯曲、現代と過去のペルシャ文学の扉を開きました。彼はまた、多くの著名な文学者に影響を与えたため、イランの現代文学を代表する人物となっています。

アボルハサン・ナジャフィー博士の作品を見ると、彼が何に関心を持っていたかがよく分かります。彼の作品には、「ペルシャ語における言語学の基盤とその応用」や、「間違えて書いてはいけない、ペルシャ語の困難な文法」、あるいは、「ペルシャ語の口語辞典」といった完全にアカデミックなものもあれば、翻訳も見られます。翻訳には、ウジェーヌ・イヨネスコ、アルチュール・アダモフ、ナタリー・サロート、アラン・ロブグリエといったフランスを代表する作家の作品があります。ナジャフィー博士の研究作品におけるペルシャ語は、その翻訳におけるペルシャ語とは異なるものですが、読み手はそのすべてにおいて、ナジャフィー博士の平易なペルシャ語に触れることができます。ナジャフィー博士の研究作品とその他の作品の違いは、文章における言葉の正確で注意深い選び方にあります。

ナジャフィー博士は、その生涯の多くを、校正やその原則をまとめる作業に費やしました。彼はイランにおける技術的、学術的な校正の基盤を打ち立てた人物です。彼は、ペルシャ語が軽視され、損なわれていることに苦しみ、民族的な決意と努力が、それを解消するための道だと考えていました。ある時彼は、「ペルシャ語が軽視され、ラジオやテレビ、インターネットが書くことを大きく損なっている時代、現代の若者たちは書くことを怠っている。言語を正しく書かせるための道を見出すことが、校正者の使命である」

優れた校正者であったナジャフィー博士は、自身の経験を、「間違えて書いてはいけない」という本に集約しています。この本は、「ペルシャ語の困難な文法」というサブタイトルで、1987年に初版が発行され、その後、何度も増刷されました。ナジャフィー博士は、この本を、イランで最も古い出版社である大学出版センターと協力していた際に執筆しました。この本は、長年に渡るナジャフィー博士のメモを集めたものです。

「間違って書いてはいけない」、この本は、現代のペルシャ語の使い方に見られる誤りのリストです。ナジャフィー博士は、その本の中で、多くの作家が書く際に躊躇するペルシャ語の文法や言葉の使い方に関するむずかしさ、問題について分析しています。

この本を書くのに多くの労力を費やしながらも、ナジャフィー博士は自身の作品を批評し、その欠点について述べています。ナジャフィー博士によれば、この本は実際、すべての期待には応えきれていない、ペルシャ語のむずかしさを語り切れていないと語っています。そして、この本では主に単語を扱っているが、重要なのは言語の使用方法、つまり、ペルシャ語の文章の作り方が問題に直面していることだとしています。ナジャフィー博士は、この本の二度目の校正のためにさらに多くの文例を集めました。そのため内容は3倍になり、彼自身、「完全に異なる本」になったと語っています。

私たちが本を手に取ってページを開くとき、その本のページごと、一行一行に何日が費やされ、どれほどの歳月がかけられてそこにたどり着いたことかは知る由もありません。「ペルシャ語口語辞典」は、ナジャフィー博士が20年を費やして完成された作品です。ナジャフィー博士は、テヘランの人々が日常的に使う言葉、構成、表現をこの本に集めました。彼は地方の表現や方言は扱わず、例文を選ぶ際、イスファハーン出身の近代作家、モハンマド・アリー・ジャマールザーデの2冊の本は例外として、1921年以降に書かれ、出版された作品、そして、テヘランで生まれたり、テヘランで育ったりした作家の作品を使用しました。この文化に見られる現代文学の特徴に注目すると、この本は、ペルシャ語の現代文学に大衆文化がどれほど影響を及ぼしたかを知りたい人のためのものになっています。この本は、2002年の年間最優秀図書に選ばれました。

ナジャフィー博士は、フランスで学業をおさめました。彼は言語学を選び、この分野での教育にたずさわりました。彼は「ペルシャ語における言語学の基盤とその応用」という本の中で、簡単な言葉を用いて言語学の問題を説明しています。ナジャフィー博士は、ペルシャ語には欠陥があるとは考えていませんでした。なぜなら、ペルシャ語の哲学を深く理解し、その長所と短所を知り、ペルシャ語の潜在的な可能性が十分に活かされていないと考えていたからです。

ナジャフィー博士は、英語などの西洋の言語でさえ、最初から今のような形ではなかったとし、その学術的な言葉が作られるには、言語自体が持つ潜在的な可能性が利用されたとしています。また、ペルシャ語はおよそ1200年の歴史があり、簡単な案内があれば、この1200年に書かれたものを読み、理解することができるが、英語はおよそ1400年前のものはほとんどの人には理解できず、それを新たな言語として学ぶ必要があるとしています。

翻訳も、ナジャフィー博士の障害における重要な活動の一つでした。彼はフランス語からペルシャ語への翻訳で出版活動をはじめ、その当初から、その時代と後の時代のモデルとなりました。彼の非常に美しく正確な翻訳により、フランスの20世紀の文学がイランの人々に紹介され、それ以上に美しく書くという問題と共に、文学的な翻訳の真の意味が、文学社会に提起されました。

多くの翻訳者が、翻訳方法において、ナジャフィー博士にならっています。彼は学術的、文学的な書物の翻訳と、それ以外の書物に大きな差を設けています。ナジャフィー博士によれば、翻訳者は翻訳の際、その全ての瞬間において読み手の立場に立ち、紙の上にもたらすものが理解可能かそうでないかを見るべきだとしています。こうして、「作家がもしその言語で語ったなら、という前提で、それを紙の上に書き起こす」という一連の作業が生まれました。

イランの著名な言語学者、研究者、校正者、文学者、翻訳家であり、フランス文学のペルシャ語翻訳の第一人者であったアボルハサン・ナジャフィー博士は、1929年、イラク南部のナジャフで生まれました。彼は、ペルシャ文学・言語学院の会員でした。その文学・学術活動の中心は、文学作品の翻訳、校正、言語学研究、ペルシャ語詩の韻律研究の分野でした。彼は長年に渡り、毎週金曜日になると、文学を愛する人々や仲間たちを自宅に招き、会合を開いていました。数ヶ月病床に伏していましたが、2016年1月22日、86歳でこの世を去りました。

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特別番組 Sun, 31 Jan 2016 21:46:36 +0900