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2015/04/25(土曜) 20:14

ホラーサーン・ラザヴィー州・マシュハド(1)

ホラーサーン・ラザヴィー州・マシュハド(1)

今回からは、イラン北東部にあるホラーサーン・ラザヴィー州を訪れてまいりましょう。この州は、フェルドゥースィーといったイランの偉大な詩人や学者を輩出した場所、文明のゆりかごであり、イスラムの偉大な預言者の一門、イマームレザーの聖廟があります。

 

ホラーサーン・ラザヴィー州は、イラン北東部の広大なホラーサーン地域の州のひとつであり、2004年に3つの州に分割されました。この州の面積は12万7432平方キロメートルで、北はトルクメニスタン、北西は北ホラーサーン州、東はアフガニスタン、南は南ホラーサーン州、西はヤズド州とセムナーン州と接しています。この州の州都は聖地マシュハドで、海抜970メートルのところに位置しています。この他、ホラーサーン・ラザヴィー州の重要な都市は、ネイシャーブール、サブゼヴァール、カーシュマル、トルバトジャーム、サラフシュとなっています。

ホラーサーン・ラザヴィー州は、地理の点から北と南に別れています。北の地域は、農業や畜産業に適した肥沃な平原が広がっており、南の地域は、低い丘のある荒野が広がり、植物はほとんど見られません。この地域には幾つかの山脈があり、中でもへザールマスジェドとビーナールードの2つの山脈が、特に高くて規模も大きくなっています。

ホラーサーン・ラザヴィー州は、温暖な地域に属し、全体的に、北から南にいくに従って気温が高くなり、年間降水量は減少します。ホラーサーン・ラザヴィー州は、各地で気候が異なっており、山すその地域は半砂漠性の気候、グーチャーンなどの南部の地域は熱帯砂漠性の気候、また南部の地域でも、ビーナールードやへザールマスジェド山脈、そしてマシュハド行政区の一部といった地域は、山岳地帯の温暖な気候となっています。この州で最も標高が高いのは、ビーナールードの山頂で、3615メートル、最も標高が低いのは、サラフス平原で299メートルとなっています。

ホラーサーン・ラザヴィー州は、トゥース、ネイシャーブール、サブゼヴァールといった古代の中心都市があり、古い歴史を有しています。イスラム以前から数世紀前まで、イランの歴史と文化において、最も重要な中心地となっていました。この地方の人々は、ペルシャ語、トルコ語、クルド語の方言を話します。またマシュハドと州の南部の一部の都市では、アラビア語を話す人々もいます。

ホラーサーン・ラザヴィー州は、イラン東部の重要な地域であり、イランの社会、経済、文化活動の中心地と見なされています。この州は、シーア派8代目イマーム、レザーの聖廟があること、巡礼者が多いこと、トルクメニスタンやアフガニスタンと接していること、商業活動が盛んで戦略的に重要な地域となっています。昔から、ホラーサーン州の生産活動の中心は、農業と伝統工芸です。そのため、ホラーサーン地方の主な生産品は、小麦、サフラン、ゼレシュクと呼ばれるへびのぼらずの実、干しぶどう、皮革製品であり、肥沃な平原や谷間における豊かな水資源と農耕に適した土地の存在により、小麦、アーモンド、りんご、西洋ナシ、ピスタチオ、ナツメヤシ、かんきつ類といった、寒冷地帯、半熱帯、熱帯地方の生産品が見られます。

ホラーサーン地方は、イランの重要な畜産地域と見なされています。ホラーサーン・ラザヴィー州は、イランの伝統工芸の中心地でもあります。この州の伝統工芸には、トルコ石、じゅうたんやレザークラフトがあります。この他、この地域では、石炭、銅、亜鉛、鉄、マグネシウム、耐火粘土、マグネサイト、大理石やトラバーチン、鉄鉱石、石灰なども採掘されています。

ホラーサーン地方は、古い歴史を有するため、数多くの歴史遺産を有しています。ユネスコの発表によれば、ホラーサーン・ラザヴィー州には903件の文化・歴史遺産が存在し、それらはイランの国家遺産に登録されています。ホラーサーン・ラザヴィー州の最も重要な建築は、墓廟です。それらは、長い歴史の中で、人々から愛された人物、宗教的な人物の墓の上に建てられ、通常、聖廟、モスク、神学校、図書館、隊商宿、貯水槽、修行所などがあります。そしてこれらの施設の拡大は、宗教の普及は、そこに埋葬されている人物の信用や評価、建物の建築・芸術的な価値と直接、関係しています。

一部の墓廟は、都市の形成において、重要な役割を果たし、宗教、政治、経済などに関する様々な活動の中心地となっています。イマームレザー聖廟は、イスラム世界にある最も壮麗な聖廟のひとつで、この聖廟の存在により、ホラーサーン・ラザヴィー州は、イランの宗教観光、聖地巡礼の最大の中心地となっています。この聖廟は、それだけでも類まれなる魅力的な建築となっていますが、他の建物と共に、ホラーサーン・ラザヴィー州に、精神性、建築、歴史の点で、大きな価値を与えています。ここからは、ホラーサーン・ラザヴィー州の州都であるマシュハドについてお話ししましょう。

818年、イマームレザーが殉教し、トゥースの近くにあるサナーバードという場所に埋葬された後、現在のマシュハドの町の核ができあがりました。トゥースの町が、モンゴル族によって破壊された13世紀、この町から多くの人がマシュハドに流れ込み、マシュハドがしだいに繁栄を遂げるようになりました。こうして、初めはサナーバードにある聖廟に過ぎなかったマシュハドの町は、少しずつ広がっていきました。

マシュハドとトゥースは共通の歴史を有しています。そのためまずは、トゥースの町の歴史を見ていきましょう。イランの古い物語では、トゥースの町は、イランの神話上の王であったジャムシードによって建設され、イランの軍司令官で英雄であったトゥースが、それを再建したとされています。この町は、サーサーン朝時代に存在していました。その後、第3代カリフの時代にアラブ人によって征服され、イスラムの領土となりました。1030年、セルジューク朝が少しずつ、ホラーサーンの重要な都市に勢力を拡大し、1073年に、セルジューク朝の王、マレクシャーが、この町を学のある宰相であった、ハージェ・ネザーモルモルク・トゥースィーの手に委ねました。1153年には、ゴズ族が、セルジューク朝を倒し、トゥースをはじめとするホラーサーンの大都市を征服しました。

トゥースは、イルハン朝からテイムール朝の間に、様々な為政者の手に渡り、1389年、蜂起の失敗によってその土地の住民の大虐殺が行われ、町の門の下に、殺害された人々の頭が積み上げられました。1405年にテイムール朝のシャーロフ・ミールザーが王座につくと、トゥースの町は拡張されました。

マシュハドは、シャーロフの時代から大きな重要性を帯び、テイムール朝の王たち、特にバイソンゴル・ミールザーが、マシュハドとイマームレザー聖廟を重視したことから、トゥースの町の重要性が薄れ、15世紀半ばからは、歴史の中に、トゥースという町の名が見られなくなり、時にトゥースの町について語られる際には、マシュハドの近郊にある町として紹介されるようになりました。トゥースは、15世紀以降、繁栄することはなく、その住民もマシュハドへと移住しました。こうして、昔のトゥースは単なる廃墟となり、新しいトゥースは、ペルシャの偉大な詩人、フェルドゥースィーの墓があるために重要な場所となっています。

いずれにせよ、現在のマシュハドの歴史は、昔のトゥースの街の歴史と密接に関係しており、ここ数百年の歴史の中では、イマームレザー聖廟によって、歴史的、宗教的な価値を増しています。そして現在、この町は、シーア派、さらにはスンニー派の巡礼の中心地となっています。現在のマシュハドは、イランのみならず、イスラム諸国を代表する大都市となっていて、イマームレザー聖廟のほかにも、いくつかの見所が存在します。これらについては、次回の番組でご紹介しましょう。次回の「ようこそ、イランへ」をお楽しみに。

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