このサイトは更新されていません。新サイトはこちらです。 Parstoday Japanese
2015/05/30(土曜) 23:01

ホラーサーン・ラザヴィー州、ネイシャーブール(1)

ホラーサーン・ラザヴィー州、ネイシャーブール(1)

ネイシャーブール行政区は、ホラーサーンラザヴィー州の重要な行政区の一つであり、50万人の人口を擁し、マシュハド行政区に次いで、この州で2番目に人口の多い行政区となっています。ネイシャーブール行政区の経済は、農業と畜産業によって成り立っています。代表的な生産品は、小麦、大麦、綿、豆類、夏野菜、各種の果物、畜産品です。この行政区では、機械的な方法と、伝統的な方法による農業が行われています。ホラーサーンラザヴィー州の84種類の生産品のうち、76種類が、ネイシャーブールで栽培されており、この行政区は、47種類の農作物に関して、1位から3位までを占めています。カナートと呼ばれる地下水路は、ネイシャーブールの特徴の一つで、最も重要な灌漑施設となっており、現在もその重要性を維持しています。

 

ネイシャーブール平原は、北と東がビーナールードの山々に、南はカーシュマルという地域にあるソルフクー山とトルバトヘイダリーエという地域にあるチェヘルタン山、西はサブゼヴァール砂漠に囲まれており、肥沃な土地です。そのためネイシャーブールは、様々な果実の実る緑豊かな庭園と、気持ちのよい気候の場所として知られています。肥沃な土壌と人口の多い地域の多くは、この行政区の北部に集中しており、7つの都市のうちの6つが、この地域にあります。また、そこには多くの河川が流れていて、最も代表的なのは、カール・シュール・サブゼヴァール川です。この川は、ネイシャーブール行政区の山々を源泉とし、サブゼヴァールを通ってキャヴィール砂漠に流れ込みます。この行政区で最も標高の高い場所であるビーナールードは、3211メートルで、ホラーサーンという名前で知られ、ブージャーン村の近くにあります。

ネイシャーブール行政区の中心都市、ネイシャーブールは、イラン東部ホラーサーン・ラザヴィー州の最も重要な都市のひとつで、ビーナールードの山すそに位置しています。ネイシャーブールは、イラン北東部で最も人口が多く、文化、観光、産業、歴史の中心地で、イランの文化と歴史を象徴する場所のひとつです。ネイシャーブールは、イランとホラーサーンの都市の中でも最も長い歴史を有する町で、シルクロード上にあります。

ネイシャーブールで行われた考古学調査により、この地域は、紀元前3000年期に、パキスタンのインダス川流域やチグリス・ユーフラテス川流域と交易を行っていたこと、ホラーサーン地方で最も古い地域であることが分かりました。9世紀から12世紀は、ネイシャーブールの歴史の中でも、最も多くの重要な出来事が起こった時期です。この町は、3世紀半ばのサーサーン朝時代に、シャープール1世の命によって建設され、643年にイスラム教徒に征服されました。

ネイシャーブールは、ターヒル朝と、セルジューク朝初期の2回、イランの首都に選定され、11世紀には、世界の人口の多い大都市トップ10に名を連ねていました。この地域が最も栄えたのは、イスラムがホラーサーンに入ってから、モンゴル族の襲撃までの時代です。ネイシャーブールはこの間、イランの文化的な首都として知られていました。この町は、当時の交易路であったシルクロード上に位置し、東洋の回廊と呼ばれていました。イランからトルクメニスタンへの交易路は、ネイシャーブールから、イランとトルクメニスタンの国境にあるサラフシュへと延び、その後、トルクメニスタン南東部のマルヴに続き、大きな重要性を有していました。

ネイシャーブールは、イスラム文明の黄金期、特にアッバース朝カリフ時代には、学問、知識、革新の中心地でした。この町は当時、多くの学者や詩人、神秘主義哲学者、宗教学者の故郷や中心地となっていました。モンゴル族の攻撃とその後の影響により、ネイシャーブールの歴史、イラン・イスラム文明は破壊的なダメージを受けました。

しかし、モンゴル族の襲撃や数多くの地震によって、ネイシャーブールが消滅することはありませんでした。現在、人口の点から、ネイシャーブールは、ホラーサーンラザヴィー州で最も人口の多い町、この州で最も経済・産業活動が盛んな町となっています。この美しい町は、自然、宗教、文化の魅力を備え、またシルクロード上にあるため、多くの人々をひきつけており、3000年近くの歴史を有するにも拘わらず、今もその壮麗さや活力を失っていません。

モンゴル族の襲撃に加え、ネイシャーブールは、何度も地震によって破壊されました。そのため、ネイシャーブールの旧市街の北西に新たな町が建設され、人々はそこに移り住みました。古いネイシャーブールの町から残っているのは、古い城砦・コハンデジュと呼ばれる地域で、面積は3500ヘクタールです。ネイシャーブールの初めての考古学調査は、1935年に始まり、現在まで続いています。ネイシャーブールの現在の町の周辺にある数多くの廃墟は、その昔、ネイシャーブールがいかに大きな町であったかを物語っています。

9世紀から10世紀は、ネイシャーブールの陶器芸術の隆盛期で、陶器やそれに関連する産業の中心地と見なされていました。1988年にネイシャーブールで行われた考古学調査により、この町の陶器産業の歴史が明らかになりました。ネイシャーブールで発見された陶器は、ニューヨークのメトロポリタン美術館、テヘランのアーブギーネ・ガラス&陶器博物館などに保管されています。研究者たちは、ネイシャーブールの陶器に見られる芸術は、サーサーン朝時代の金属細工の流れを継承したもので、陶器に見られる書体の変化、様々な表現、装飾、作り方などを分析することができるとしています。ネイシャーブールの陶器芸術は、技術、デザイン、書道にも多様性が見られ、それらは、作り手の表現力や技術を示しています。うわぐすりの塗り方、クーフィック書体で書かれた美しい文字、動植物や人間の模様、それぞれの要素の組み合わせ、これらはイスラム芸術の一部を際立たせています。

ネイシャーブールの町は、良質のトルコ石によって世界的にも知られています。数百年にもわたり、ネイシャーブールのトルコ石は、世界で最も良質のものとして採掘され、世界各地に輸出されてきました。ニューメキシコ、ネバダ、コロラド、チベット、シナイ半島、チリなど、他にもトルコ石が採れる場所はありますが、有識者や関係者によれば、世界で最も良質のトルコ石は、ネイシャーブールのものだということです。

トルコ石は、紀元前3400年にエジプトの為政者たちが、シナイ半島の鉱山で採掘し、装飾として使用していました。トルコ石の採掘と加工がイランで行われるようになったのは、サーサーン朝時代のことです。その後、王室の器や指輪を装飾するために使われていました。

トルコ石の鉱脈は、標高2012メートルの場所にあります。トルコ石の鉱山には、大きな洞窟や穴がたくさんあり、それらは、ネイシャーブールのトルコ石の採掘が、長い歴史を有するものであることがわかります。考古学調査により、トルコ石は、紀元前2000年期にイランで装飾として使用されていたことが分かっています。現在、イラン産のトルコ石の主な買い手は、トルコ、イタリア、スウェーデンとなっています。

ネイシャーブールは、偉大な神秘主義哲学者のアッタール、数学者で詩人だったオマル・ハイヤーム、著名な画家のキャマーロルモルクなど、多くの優れた学者や文化人を輩出してきました。ラジオをお聞きの皆様、今夜はここで時間がきてしまいました。次回のこの時間は、これらの人物についてご紹介する予定です。

Add comment


Security code
Refresh