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2015/07/04(土曜) 21:01

ホラーサーン・ラザヴィー州、ネイシャーブール(2)

ホラーサーン・ラザヴィー州、ネイシャーブール(2)

前回の番組では、イラン北東部ホラーサーン・ラザヴィー州の歴史的な街、ネイシャーブールをご紹介しました。ネイシャーブールには、イランの偉大な学者や文学者、芸術家たちの墓があります。今夜はまず、イランの偉大な数学者、詩人であったオマル・ハイヤームの墓をご紹介しましょう。

 

オマル・ハイヤームは、イランの哲学者、数学者、天文学者、詩人です。彼は1048年にネイシャーブールで生まれ、1131年に亡くなりました。ハイヤームは、当時、多くの学問において傑出した存在でした。若い頃には、平方根に関する論文を記し、現在のウズベキスタンにあるサマルカンドでも、代数に関する論文を記しました。この論文で、ハイヤームは、代数の二次・三次方程式を解いています。彼は、円錐曲線を利用して、多くの代数問題を解きました。ハイヤームは数学において多くのことを解明し、後のヨーロッパの数学者に大きな影響を与えました。彼は1074年、わずか27歳のときに、当時の著名な学者や数学者と共に、暦の改正に取り掛かりました。このグループが、4年にわたって、イラン中部・イスファハーンにある天文台で行った活動により、太陽暦の一種、ジャラーリー暦と呼ばれる暦ができあがりました。この暦は現在まで、世界でもっとも 正確な暦法とされています。

ハイヤームは、1077年に幾何学に関する論文を記しました。その中で、ハイヤームはユークリッド幾何学を証明しようと試み、それまで数百年に渡って世界中で教えられていた公準の問題点を指摘し、非ユークリッド幾何学の基礎を築きました。アメリカの歴史家、ジョージ・サルトンは、中世で最も偉大な数学者としてハイヤームの名を挙げ、次のように記しています。

「ハイヤームは、1次、2次、3時方程式の研究を行い、賞賛に値する分類を行った。代数学に関する彼の論稿は、非常に論理的な科学的思考を示すものであり、この論稿は、忠誠で最も優れた作品、いや恐らく、この学問において、最も優れたものであるだろう」

ハイヤームは、数多くの著書を残しており、その一部は、世界の数学において、特別な重要性を有しています。ハイヤームの科学的な地位は、文学的な地位よりも優れてはいるものの、彼はむしろ「ルバイヤート・四行詩」によって、世界的に知られています。ハイヤームのルバイヤートは、ペルシャ語版は何百回も増刷され、様々な言語の翻訳も、増刷が繰り返されています。ルバイヤートの英語訳は、エドワード・フィッツジェラルドというイギリスの東洋学者、詩人によって1859年に出版され、英語で書かれた書物の傑作のひとつとなっています。

ハイヤームの墓は、現在、ネイシャーブールの町にあります。このイランの偉大な学者の墓の上には、フーシャング・セイフーンという名の建築家の手によって、美しい建物が建設されています。イランの現代と古い時代の建築芸術の融合である、この建物の建設には、様々な数学の原則や幾何学が利用されています。この墓には12メートルの高さの10個の台座があり、天文台となっていて、その内部の窓からは、星々が美しく見えるようになっています。この建物は、いくつかの三角形が興味深い形で組み合わせられており、天井の部分へとつながっていて、その天井は、132平方メートルのドームになっています。また墓には美しい書体で、彼のルバイヤートの詩が装飾されています。この墓がある庭園の敷地には、様々な分野の貴重な専門書を集めた図書館があり、多くの人が利用しています。

ここからは、イランの著名な詩人で神秘主義哲学者であった、ファリーデッディーン・アッタール・ネイシャーブーリーについてご紹介しましょう。彼はネイシャーブールの町に眠っています。この町の近郊にある彼の墓廟には、一年を通して、イランの文化や文学を愛する人々が訪れています。

ファリーデッディーン・アッタール・ネイシャーブーリーは、12世紀末から13世紀初めにかけての、イランの著名な詩人です。彼は1146年にネイシャーブールのキャドキャンに生まれ、1221年に亡くなりました。アッタールの墓は、15世紀に建設されました。現在の墓の建物は八角形で、タイル細工の施されたドームと4つの入り口があります。外から見ると、タイル細工の施された4つの展示場が用意されており、墓廟の中央には、アッタールの墓と、高さ3メートルの柱があります。アッタールは、イランで最も多くの作品を残した詩人であり、神秘主義哲学者としても、高い地位を有していました。

アッタールの代表的な作品には、アスラールナーメ、エラーヒーナーメ、マンテゴッテイル、モスィーバトナーメ、モフタールナーメ、タズキャラトル・オウリヤー、そして詩集があります。この詩人は、モンゴル族がネイシャーブールを襲撃した際に殺されてしまいました。

アッタールの墓廟の敷地内には、キャマーロルモルクの墓もあります。芸術、特にイランの絵画を愛する多くの人にとって、キャマーロルモルクはよく知られた存在です。彼は、19世紀前半の著名な芸術家で、彼の絵画の世界での活躍は、その手法における革新と共に、イランの絵画の世界に新たな息吹を吹き込むものとなりました。

キャマーロルモルクという名で知られるモハンマド・ガッファーリーは、ガージャール朝末期の最も偉大な画家です。彼は1847年にイラン中部のカーシャーンで生まれ、初等教育を終えたあとにテヘランに行き、当時、著名な学校であったダーロルフォヌーンで学びました。キャマーロルモルクは、芸術に対する造詣が深い家に生まれたため、まもなく、その芸術的な才能を開花させていきました。彼は、学校に通い始めた頃から、芸術家や学者たちの注目を集めていました。そして、ガージャール朝の王、ナーセロッディーンの時代、宮廷画家となり、そこで芸術を学ぶようになり、次々に作品を生み出すことで、急速に信用と地位を得ていきました。「鏡の広間」と呼ばれる非常に有名な作品を発表したのも、この頃のことです。

イランの当時の政変を受けて、キャマーロルモルクはヨーロッパに向かいました。そこに滞在している間、彼は絵画を学び、ヨーロッパの偉大な画家たちの多くの作品を模写しましたが、それらは、この著名な芸術家の技術の高さを物語るものとなっています。なぜなら、これらの作品は、そこに使われている色合いが、少し鮮やかなだけで、実物とほとんど変わりのないものだったからです。キャマーロルモルクは、1940年、92歳のときにネイシャーブールで亡くなりました。彼の墓には、6つの小さなエイヴァーンと呼ばれるテラスがあり、内側は、白と青の組み合わさったモザイク模様のタイル細工で装飾されています。この墓は、キャマーロルモルクの横顔を模したものとなっています。

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