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2015/09/21(月曜) 21:29

イラン人の口承文学における礼拝の地位

イラン人の口承文学における礼拝の地位

前回の番組では、イラン人の文化における礼拝の地位についてお話しました。礼拝はイラン人の風俗習慣の一部となっています。今回の番組では、イラン人の口承文学における礼拝の地位についてお話しすることにいたしましょう。

文学は人々の文化の重要な一部を形成しています。文学は、詩であれ散文であれ、それを作る人々の頭から生まれたものであり、人々の信条や思想がその中に反映されています。それゆえ、イラン人の大衆文学は、礼拝に関する事柄において優美さに溢れています。物語や格言、詩においても、容易に礼拝の影響を目にすることができます。それらはすべて、イランの人々の生活における礼拝の基本的な役割を反映しています。今夜の番組ではまず初めに、礼拝に関するペルシャ語の格言をご紹介することにいたしましょう。

格言とは、人々の長年の経験を移転した助言のようなものであり、世代から世代へと語り継がれてきたものです。格言は人々の経験や信条から生まれたもので、人々の思想や行動を方向付けます。これにより民俗学では非常に重要なものとなっており、格言への宗教文化の影響を見て取ることができます。

イラン人の文化において、礼拝に関連する格言はたくさんあります。この格言の一例を挙げてみましょう。
「礼拝のための古い絨毯は、礼拝のふりをするための新しい繻子(しゅす)よりもよい」
これは、誠実に礼拝を行うために古い布を広げることは、礼拝を行うふりをするために高価な繻子織りの布をひろげることよりもよい、という意味です。

なぞなぞもイラン人の文化の一部を形成しており、ある種の娯楽とされると共に、頭の体操となっています。イランの人々の文化は宗教的な価値の影響を受けており、その中で礼拝とそれに関連する事柄は基本的な役割を担っていることから、当然一部のなぞなぞは礼拝やそれに関連するものを中心に作られています。とはいえ礼拝に関するなぞなぞは、多様な形で語られており、ここでは二つのなぞなぞをご紹介しましょう。
「8つの枝は太陽の中にあり、9つの枝は影の中にある、17本の枝を持つ木は何?」

このなぞなぞの答えは、日常行われる17セットの礼拝であり、太陽の中にある8つの枝とは日中に行われる礼拝で、影の中にある9つの枝とはそれ以外の礼拝を指します。このなぞなぞはイラン西部で広まっていますが、似たようなものがイラン各地にあります。

さてもうひとつのなぞなぞです。
「10と7をすべての人にとっての義務とするものは何?」
この答えも17セットの礼拝です。

次は、礼拝に関する民族の詩をご紹介することにしましょう。
「神が助ける者は幸いなり、彼らは神を崇拝し、称える
常に礼拝に勤しむ者は幸いなり、永遠の楽園に彼らの場所がある」

イラン南部のアバダンの人々の詩にも、礼拝に関するものがあります。


「預言者の宗教の同胞は、礼拝をし、断食をし、神の名を唱える」

ペルシャ文学は、堅固な言語や思想、さらに、精神的な口承文化を持つ広く深い宝庫です。このため、今夜の番組では、ペルシャ文学における礼拝の地位についてお話することにいたしましょう。

イスラム教の柱である礼拝に関して、詩人や作家の多くは作品の形に表してきました。ここでは、これについてお話しすることにいたしましょう。
イランの著名な詩人ハーフェズは恐らく、どの詩人よりもより広い範囲で、礼拝に関する非常に美しい描写を行っています。彼は多くの詩の中で、心から行われた礼拝を賞賛しています。彼の考えではこのような礼拝は人間を至高なる地位に至らせ、人間がこの世の帰属や欲望から離れることになり、至高なる神とつながるという考えを人間の中に呼び起こすものです。ハーフェズの詩の例を挙げてみましょう。
「心身が清められる礼拝、それに勤しむものに幸いなり」
「愛の泉で身を清めた。そして、一気に死者に祈りを捧げた」

15世紀の詩人で作家のアブドルラフマン・ジャーミーもまた、その作品の中で、礼拝の美徳に関して多くを語っています。イランの優れた詩人、モウラヴィーも、作品の中で、物語や比喩を用いて、最も簡素な言葉で、宗教や神秘主義の最も複雑な点を語っています。最も美しい物語を含むモウラヴィーの作品マスナヴィーの3巻目の多くのテーマは礼拝に関するものです。彼は礼拝に関する無数の利点を挙げており、その中で、問題に対抗するためには礼拝を行うことだとしています。モウラヴィーは、このことを示すために、このような物語を語っています。

ある二人の人物が喧嘩をし、どちらが正しいかの判断を仰ぐために、預言者ダーヴードのもとを訪れました。ダーヴードは彼らに言いました。「礼拝を行うと私の心の窓が開き、神の託宣が私に下される。判断を下す前に、礼拝を行わせてくれ」。この後、ダーヴードは礼拝を初め、神に対して、問題を解決するために助けを求めました。そして礼拝が終わると、彼の中で真理が明らかになり、二人の間で調停を行いました。

この物語の最後に、ダーヴードは、「礼拝を行なった理由は人々に、困難の中で神に助けと力を求めることを教えるためだった」と述べています。

 

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