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2015/12/27(日曜) 22:09

コーラン第26章 シュアラー章 詩人 第198節~第209節

コーラン第26章 シュアラー章 詩人 第198節~第209節

コーラン第26章 シュアラー章 詩人 第198節~第209節

 

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

 

第198節~第199節

وَلَوْ نَزَّلْنَاهُ عَلَى بَعْضِ الْأَعْجَمِينَ

فَقَرَأَهُ عَلَيْهِمْ مَا كَانُوا بِهِ مُؤْمِنِينَ

「我々がもしそれを、アラブ人以外の人々に下し、彼[預言者]がそれを彼らのために呼んでいても、彼らはそれに信仰を寄せなかったであろう」 (26:198~199)

 

前回の番組でお話したように、神は次の点を強調しています。「我々はコーランを雄弁なアラビア語で下した。あなたたちへの警告や忠告となるように」 この2つの節は続けて、その理由の一つを述べています。「この民族は非常に偏った考え方を持っていたため、もしコーランがアラビア語以外の言葉で、アラブ人以外に下されていたら、彼らは決して信仰を寄せなかっただろう」

コーランは高貴な生まれのアラビア語を話す人物に下され、そのことは、以前の啓典の中にも記されていました。それにも拘わらず、彼らはそれを受け入れようとはしていません。ですから、もしそのような状況が整っていなければ、その可能性はさらに低くなっていたでしょう。シーア派6代目イマーム、サーデグは、次のように語っています。「アラブ人以外の人々の価値や美徳は、彼らがアラビア語で記されたコーランに信仰を寄せたことにある。しかし、もしコーランがアラビア語以外で下されていたら、アラブ人の一部は信仰を寄せなかっただろう」

 

第198節~第199節の教え

・教育と宣伝においては、それを受ける側の言語や感情に注目し、彼らが真理を受け入れる用意を高める必要があります。

・人種や民族特有の偏った考え方は、真理を受け入れる妨げの一つです。民族主義が真理を受け入れることの妨げとならないように気をつけましょう。

 

第200節~第203節

كَذَلِكَ سَلَكْنَاهُ فِي قُلُوبِ الْمُجْرِمِينَ

لَا يُؤْمِنُونَ بِهِ حَتَّى يَرَوُا الْعَذَابَ الْأَلِيمَ

فَيَأْتِيَهُمْ بَغْتَةً وَهُمْ لَا يَشْعُرُونَ

فَيَقُولُوا هَلْ نَحْنُ مُنْظَرُونَ

「我々はこのように、罪を犯す人々の心にコーランを入らせた。[だが彼らは、]痛ましい責め苦を見ない限り、それを信じない。それは突然、彼らが知らないうちにやってくる。そのとき彼らは言うだろう。『私たちに猶予は与えられないのか』と」 (26:200~203)

 

コーランが語りかける相手は、敬虔な人たちだけではありません。不信心者や多神教徒も、信仰を捨てる口実を設けることができないように、最後通告として、彼らに真理の言葉を聞かせる必要があります。そのため神はこのように語っています。「我々は、コーランを、全ての人が理解できるような形で下した。だが、傲慢さや尊大さ、罪により、一部の人は神の言葉を信じず、それを否定する」

彼らの多くは、自分の不信心を頑なに守り、「あなたが約束する責め苦を示し、私たちが自分の目でその責め苦を確かめるまでは信仰を寄せない」と主張します。しかし、責め苦が下ったときには、すでに信仰を寄せる機会はありません。なぜなら、責め苦というものは、予告なしに突然下り、襲い掛かるからです。

 

第200節~第203節の教え

・受け入れる用意がなければ、コーランが人間の心に入り込んだとしても、役には立ちません。

・罪を続けることは、人間が導かれる土台を失わせます。

・神から猶予を与えられたからといって、傲慢になってはなりません。神の責め苦や死は、突然、人間に襲い掛かります。

・罪を犯した人は、死の瞬間に猶予を求めます。

 

第204節~第207節

أَفَبِعَذَابِنَا يَسْتَعْجِلُونَ

أَفَرَأَيْتَ إِنْ مَتَّعْنَاهُمْ سِنِينَ

ثُمَّ جَاءَهُمْ مَا كَانُوا يُوعَدُونَ

مَا أَغْنَى عَنْهُمْ مَا كَانُوا يُمَتَّعُونَ

「彼らは我々の責め苦を急ぐのか?汝は見ただろう。何年もの間、彼らに恵みを持たせたとしても、約束の責め苦はやって来る。そのとき彼らが持っていたものは、[責め苦を退けるのには]何の役にも立たないだろう」 (26:204~206)

 

前の節は次のように語っています。「この罪を犯す人々は、責め苦が下されるとき、自分たちのそれまでのやり方を改め、信仰を寄せるために猶予を求める。だが、もし長い年月の猶予を彼らに与えたとしても、それでも彼らは信仰を寄せず、神の約束を否定する。そのとき、富や権力といった現世の物質的な可能性が、私たちの責め苦を取り払ってくれることはない」

そう、反抗的な人々は、高慢で不信心な精神により、いつでも、預言者たちから神の責め苦の約束を聞くたびに、それを嘲笑し、こう言っていました。「もしあなたが本当のことを言っているのなら、私たちにも見ることができるように、その責め苦を下してみせてほしい」

しかし、彼らは責め苦のしるしを目にすると、今度は、「もう少し猶予が欲しい」と訴えます。

 

第204節~第207節の教え

・今、神の責め苦の約束を否定する人々は、いつの日か、それを免れるために猶予を懇願します。しかし、その懇願は、彼らにとって何の役にも立ちません。

・神の怒りが下された際、富や権力、名声といった人間に成功をもたらす要素のいずれも、役立つことはないでしょう。

・現世で物質的に恵まれていたとしても、それは、現世での神の恩恵の根拠にも、また来世で神の恩恵が続く根拠にもなりません。

 

第208節~第209節

وَمَا أَهْلَكْنَا مِنْ قَرْيَةٍ إِلَّا لَهَا مُنْذِرُونَ

ذِكْرَى وَمَا كُنَّا ظَالِمِينَ

「我々は、警告者がいた土地以外[の人々]を滅ぼさなかった。[彼らに]教訓や忠告を下したのだから、我々は圧制者ではなかった」 (26:208~209)

 

前の節に続き、この2つの節は、全体的な法則に触れ、次のように語っています。「神の掟とは、最後通告を出し、預言者たちを遣わして、彼らに醜い行いの結果について警告し、目覚めさせるものである。しかし、彼らがそれを知ってもなお、神に背を向ければ、神は彼らを滅ぼす。それは公正なやり方であり、僕たちに圧制が下されることはない」

 

第208節~第209節の教え

・神は全ての民や共同体のために、警告を与える人物を遣わしました。

・あらかじめ警告せずに罰を与えることは、圧政です。神が僕たちに対して、そのような圧制を行うことはありません。

 

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