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2014/03/10(月曜) 18:44

アブーバクル・ルーベンさん

アブーバクル・ルーベンさん

迷いの世界から信仰の世界に移り住み、神がイスラムの光でその人の心を照らした人々の運命の変化は、耳を傾けるに値する、大変興味深いものです。それは、はじめからイスラム教徒だった人とは違い、このように後からイスラムに入信した人々は大きな選択を迫られており、彼らの置かれた環境や文化的、社会的な体制からして、多くの困難や圧力に直面しているからです。しかし、彼らは真理にたどり着く喜びや、人間的な尊厳を得て永遠の救いにいたるために、これらの問題に耐えています。オーストラリア出身の女性で、経営学の修士号を持ち、最近イスラム教に改宗したカルメン・バスティンさんは、次のように語っています。「学問、研究を行い、気づくことで、イスラム教を選びました。私は、この世に生きている限り、宗教的な教えや道徳的な原則を守ることに加え、今後イスラム文化の普及に努めたいと考えています」

 

もっとも、信仰を寄せ、宗教的な戒律を実践し、欲望をコントロールできる人については、神がその人を、固い決意で人生の道を歩むことができ、導きの上での困難がその人にとって容易になるよう成功させてくれます。この成功は、その人の行動の結果です。また、コーラン第29章アンキャブート章、蜘蛛の最後の節では、次のように述べられています。「我々の道において、誠意を持って努力・奮闘するものは、我らが必ず彼らをその道に導くであろう。神は、よい行いをする人々と共にある」。

最近イスラム教に改宗したオーストラリア出身のアブーバクル・ルーベンさんは、次のように語っています。「私がイスラム教に改宗した経緯は、私が大学1年生だったときから始まりました。この年、私は多くの問題に直面しました。私の両親が離婚し、精神的に圧迫されていました。この年の苦い経験が原因で、私には様々な疑問が生まれてきたのです。私が抱いていた最も根本的な疑問は、自分がなぜこの世に生まれてきたのか、そして私が生きている目的とは何か、というものでした。両親は私に無神論的な教育を行い、私は子どものときから、『神や最後の審判は存在せず、死んだら次の人生はない』と聞かされていました。しかし、こうした中で私は常にむなしさを感じ、真理を捜し求めていました」。

ルーベンさんは研究に関心を持っていたことから、キリスト教に関する多くの本を読みました。しかし、こうした研究によりキリスト教に関する彼の疑問が増えることになり、結局その疑問に対する答えは出てこないままでした。このため、彼はさらに勉強を進めました。これについて、ルーベンさんは次のように語っています。「私が初めて行なったのは、キリスト教の勉強でした。洗礼の沐浴や聖職者、カトリックやキリスト教信仰の全ての原理など、キリスト教のあらゆる側面について勉強し、質問するために教会に問い合わせると、聖職者は私の疑問に答える為に聖書を参照せず、自分の個人的な解釈を私に提示しました。私の疑問に対して、全ての聖職者は別々の解釈を持っていたのです」。

ルーベンさんの勉強は、キリスト教のみで終わることはありませんでした。彼は、失われていた大切なものを得るために、大変に努力し、真理に到達するための次の歩みとして、他の宗教についても研究するようになったのです。彼は次のように語っています、「私はキリスト教、ユダヤ教、仏教、ヒンドゥー教について調べましたが、そのいずれも私が追い求めるような宗教ではありませんでした。実際、これらの宗教のいずれも私のいくつかの疑問への答えを持っていたのかもしれませんが、それらの宗教の中にある問題により、私はこれらの宗教には向かわなかったのです」。

ルーベンさんは、また次のように語っています。「宗教のこうした研究に関して、私はあらかた失望していました。しかしある日のこと、大学の友人が私に、これまでどんな宗教を調べてきたのかと聞いてきたのです。そこで、私は自分の幅広く行ってきた勉強について説明しました。彼は私に、イスラム教については調べたかと聞いてきました。私は、その問いかけに驚き、『イスラム教?私は、イスラム教については勉強するつもりはない。イスラム教徒はテロリストで、狂信的な人々だからだ』と答えました。実際、イスラム教に反対する否定的なプロパガンダにより、イスラム教について考えることさえ、私には困難になっていたのです」。

ルーベンさんは、イスラム教を粗暴な偏った宗教であると考えていたものの、好奇心にかられてイスラム教についても調べるようになりました。彼はこれについて次のように語っています。「私は友人と話した後、イスラム教についても調べたいと思うようになりました。たとえ難しくても、勉強することで、自分の考えが正しいことを自分に証明したかったのです。このため、町のモスクに行って礼拝をしている人を見かけ、靴を脱ぐことなく中に入り、ひざまずいているその人の前に立ちました。彼の行動や状態を理解できなかったものの、モスクの聖職者が私のところに来るまで、私は注意深く彼を観察していました。私はこのときまでイスラム教やイスラム教徒に関して、否定的に考えていたことを認めなくてはなりません。私は『私の人生の最後の日かもしれない』と思ってもいました。しかし、私のそのような考えは、モスクの聖職者、アブー・ハムゼさんがにこやかに歓迎してくれたことで、吹き飛んでしまったのです」。

ルーベンさんは続けて、次のように話してくれました。「聖職者のアブー・ハムゼさんは、私を事務所の中に招きいれてくれました。私はそこで、神やイスラム教に関する質問をし、キリスト教の聖職者とは反対に、コーランによって私の問いに答えてくれました。コーランを読んだとき、私は誰かが正しい道を示し導いてくれていると感じました。コーランとその内容についてもっとよく知りたいと興味を持ち、アブー・ハムゼさんからコーランを借りることにしました」。

ルーベンさんは興味や好奇心にかられ、その夜、コーランを読もうと決意しました。ルーベンさんは、次のように語っています。「その夜は静かな夜でした。私はコーランを読んでいましたが、不意にコーランを読むのをやめ、神に対して、『私はイスラム教に改宗しようとしています。コーランへの信仰心が沸きましたが、私がより心強くなり、信仰心を高めるために、あなたからの徴を欲しています』と語り掛けました。そして目を閉じ、神からの徴を期待しましたが、何も起こりませんでした。私は『神よ、私は小さな徴がほしいのだけなのです』と語りかけ、再び目を閉じましたが、何も起こりませんでした。それから何気なくコーランを開くと、開いた部分はコーラン第45章、アル・ジャースィーヤ章、ひざまづく時、の初めの部分でした。その第3節から5節には次のように述べられています。『天と地に、信仰するものにとってのみ印が数多く存在するのは、疑いないことである。また、地上全体にあまねく広く存在する創造物やあなた方を創造する上でも、信心深いものにとってのみ印が存在する。昼と夜の交代、日々の糧や降り注ぐ雨は、神が天から下したものであり、それによって、死んだあとも大地をよみがえらせること、また風も、考え深いものにとって、神の明らかなみしるしのひとつである』。これらの節は私にとってのしるしであり、天と地、全ての創造物は、唯一神の存在のしるしであるということが分かりました。コーランは、美しく心に染み入る内容により、私に心の安らぎを与え、また私の疑問の多くに答えてくれました。実際、私には次第に、イスラム教に対する否定的なプロパガンダとは逆に、イスラム教が最も完成された最高の宗教であり、人類を導くために神から下された宗教であることが分かってきたのです」。

ルーベンさんは幅広い研究を行った後、ついにイスラム教に改宗しようと決心しました。彼はラマザーン月最初の日にモスクに行き、アブー・ハムゼさんのもとで信仰を告白しました。その後、モスクにいたイスラム教徒の同胞たちが、「神は偉大なり」という言葉を唱えながらルーベンさんを歓迎しにやって来て、イスラム教への彼の入信を祝ってくれました。現在、イスラム教徒に対するルーベンさんの考え方は、完全に変化しています。

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